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叫ぶ人  作者: pinkmint
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その2 おとうさん、おかあさん

 夕食は完全に流動食だった。

 おかゆというより重湯、野菜スープ、乳酸菌飲料、それだけ。

 けれどそんなものでも、飲み込もうと思えば舌の筋肉を動かし、丸めて、喉の奥に送りださなければならない。その一連の動作を、病気を得てからわたしはこの上なく自覚することになった。

 タ行ナ行ラ行を発音しようとして先っぽを上あごにつけるだけで激痛が走る。水を飲もうと湾曲させるだけで硬化した舌が悲鳴を上げ、食事に含まれている栄養分や酸味のわずかな刺激が、まるでタバスコのように舌全体を襲う。結果、飲み込むという単純な動作の半分を失敗して、ひと口ごとにせき込む羽目になった。

 わたしは全体量の三分の一を、滂沱の涙とともに無理やり流し込んでから、すっぱりと降参した。食の楽しみがすべて激痛にとって代わられるなんて我慢ならない。点滴台にすがって立ち上がり、プラスチックの食事プレートを廊下の回収用ワゴンに突っ込む。

 その時覗いた隣の部屋から、ううむ、ううむとうめき声が聞こえた。高熱で顔を真っ赤にした老人が、額に氷嚢を乗せられて呻いているのが見える。

 そういえばわたし自身も相当高熱のはずなのに、たいして何も感じない。発熱の最初から、どういうわけか気分ばかりが冴え冴えとして、生まれたてのひとのようにすがすがしい妙な爽快感があった。

ぜんたい、これはいったいどういう病気なのだろう。


 消灯です、と言われ、強引に部屋の電気を消される。

 しびれるような痛みに顔をしかめながら、コップの水でデパスを流し込む。気休めにしかならないのは分かっている、十代のころから強力な向精神薬をかじる日々が続いていたから。それでも糸のような細さでいいから、夜という果てしのない海に溺れる前に、すがるものがほしかったのだ。

 手に負えない自殺念慮と本能的な自己否定、破滅願望。高校大学時代はずっと、自分を破壊しようとする自分との闘いだった。母は嘆き、怖れ、不安といら立ちにさいなまれ、そして何度も同じ言葉をわたしに投げつけて来た。

 どうしてあんたはふつうにできないんだろう。

 誰でもいい、ほんとに誰でもいいから、あんたみたいじゃない子どもがほしかった……



 ……おとうさあん! おかあさあん!ここはどこなの?


 甲高いかすれ声に呼びさまされて、わたしは暗闇の中に目を開いた。

 夢? そら耳?

 けれど次の瞬間、隣のベッドから、生々しい声が部屋中に響き渡った。

「おかあさん! おとうさん! ああ、誰かいないの?どうしてだれもいなくなったの?

 さっぱりわからないわ。わたしにはなにもわからない。わたしが何をしたの?

 おとうさん、おかあさん、助けて!怖い、助けに来て!」

 隣にいるのは頬にこぶをくっつけた堺というおばあさん。

 それは分かっているのだが、ひとり歌うように呼び掛けるその声は、少女のそれのように細く頼りなく、泣き声交じりの唄のようだった。

 しばらく身じろぎもせずに聞いていると、ため息とともに声は細くなり、消えゆくように思われた。

  ……ただの寝言だといいんだけど。

  けれど次の瞬間、悲鳴のようなあえぎ声とともに、叫びは再開した。


「おとうさん、おかあさあん!ああ、誰か、誰か助けて!」


 年の頃70代後半くらいか、結婚して伴侶も得て、付き添ってくれる娘もいる。それなりに自分の家庭もあるはずなのに、呼ぶのは夫ではなく恋人でもなく、ただ、両親なんだ。

 始まっては止まり、静まっては繰り返す。置き去りにされた少女のようなもの悲しい叫びは、明け方看護婦が巡回に来るまで、延々と続いた。


「昨夜は大変だったみたいですねえ」

 鏡餅をくれた杏嬢が、点滴をかえながら、声をひそめて話しかけて来た。

「夜勤のYさんから聞いたんですよ。ご当人もご家族も個室を望んでらっしゃるんだけど、空きがなくて。眠れなかったでしょう?」

「ええ、まあ。でも寝放題の環境だから昼寝します」

「そうしてください、個室が空き次第移ってもらいますからね。でもいろいろと検査もあるんですよ、今日は肺のレントゲンと内臓の超音波ですね。あと午後四時くらいに担当医の回診があります」

 杏嬢は隣のベッドに移った。採血の準備をしているようで、カーテンの向こうから手順の説明が聞こえる。

「いたたたっ。いたいわ。あなた、これ、きついわよ」

「すみませんね、でもゴムチューブを巻かないと血管が浮かないんですよ」

「随分乱暴なことばかりなさるのねえ」

「堺さん、そのままのほっぺじゃ困るでしょ。ちゃんと検査して、どういう方法で取るのが一番いいか、先生に調べてもらいましょうね」

 いうことを聞かない患者に対する言葉かけも手慣れたものだ。少女のような顔立ちの杏嬢にわたしは改めて尊敬の念を抱いた。

 思ったより病院というのは弱った体に優しくはない。39度の熱があるにもかかわらず、ゆっくりまどろむことさえ許されなかった。少しうとうとすると検温があり、点滴交換があり、血液検査があり、移動が必要な検査は車いすで移動しなければならない。家にいたほうがよほどゆっくりできたものだ。

 検査と検査の合間、白い天井を見ながら目を閉じると、体にこもった熱に流されて、ふわりと体がどこかに持ち去られる感覚があり、不自然なくらいの速さで意識が異次元に沈んでいった。


 ごうんごうん、ごうんごうん。

 また、あの音……

 周りの雑音がまだ聞こえているのに、その低音はまるでベッドの底から湧き上がるように全身を揺るがし始める。

 ああ……あああ……ああ……

 低く呻く、複数の男性の声。

 だいじょうぶですからね、一緒に頑張りましょう。痛いですか?何もしてあげられなくて、ごめんなさい、ごめんなさい……

 これは若い女性の声。

 血の匂いがする。あたり一面、血の匂いとうめき声でいっぱいだ……


「海藤さん、海藤さん」

 よびかける声で目を見開く。

「回診の時間です。先生がいらっしゃいました」

 背中にびっしょりと汗をかいているのがわかる。起き上がって首を振る。

 口を開こうとして驚いた。上下の唇が血糊でくっついて、全く開かないのだ。

 メガネの看護婦さんが、湯を浸したガーゼで唇をぬぐってくれた。

 端からはがすようにゆっくり唇をあけてゆく。それでも、はがした部分からまた出血し始める。

「どうやらね、真菌症でもないようなんですよね」

 ベッドのわきに立ち、みつをは困ったような表情を浮かべてカルテをひらひらさせた。

「でもない、となると、別…の病気……」

 口元をガーゼで押さえたまま、まわらない舌でわたしは答えた。

「それもこれから別口の検査をしないとわからないことでね。取りあえず顕微鏡検査の結果としては、菌は見当たらなかった。培養の結果はちょっと待つことになりますが、でも塗り薬は継続してくださいね。塗ってますか?」

「ええ、でも、この通りで」

「相変わらず出血ひどいな。ちょっと目を見せてもらっていいですか」

 いきなり、目?

 両目の瞼をひっくり返して、みつをは傍らの看護婦に小声で語りかけた。

「一応ベーも考えとくからそっち用意して。目の検査予約ね」

 べー?

「検査増えて申し訳ないけれど、明日は目の検査の方に回ってもらいます。ちょっと鼻の奥と咽頭も見せてもらおうかな」

 質問する暇もなく、いきなりみつをは鼻から細いチューブをするすると入れて来た。食道や気道とドッキングするあたりまで来たところで激痛が走り、瞬間涙がにじむ。

「こっちはいいようだな、よし」

 一気に引き抜かれて、吐き気が「えっ」という声となって喉から洩れた。

「ああ、口臭ひどいな。歯を磨きたいでしょうけど、我慢してね」みつをはそう言うとくるりと背を向けて部屋を出て行った。

 わたしは自分が汚れた人形になったような情けない思いがして、ただ下を向いた。



「じゅん、や?ごめん、仕事中に電話して」

『ああ、別にかまわないけど。何?』

「あのね、次来…ときに持ってきてほしいものがあ…の。医学書と、ラップ」

『何?ラップ?』

「食べ物包むやつ。うちに、あ…るでしょ」

『何に使うの』

「寝てる間に、唇が上下くっつかないようにしたいの。間に挟んで」

『何でくっつくの?』

「血が出るから。あまり長いことしゃべらせないで。したをうごかすと、それだけでいたい」

『わかった、明日両方持ってく』

「ありが、と」

 電話をかけられるディルームはいつも閑散として、人影がない。わたしはいったん切った携帯を、また握り直した。

 優花。何かがせきを切りそうで我慢していたが、声を聞かないでいるのはもう限界だった。

 長いこと呼び出し音が鳴った後、いきなりの幼い声。

『はい、かいど―でございます』

「ゆうか!ゆうか?ママよ。ひとり?おばあちゃん、いないの?」

『おばーちゃん、トイレ。ママいつ帰るの?』

「ゆうか、ごめんね。ごめんね。病気なおしたら、かならずすぐかえるから、いつになるかわか…ないけど、来週にはきっと」

 何の当てもないのに気がせいてつい約束めいたことを言ってしまう。

「だから、ね、さびしくても、パパとかおばあちゃんのいうことよくきいて、ご飯、ちゃんと食べて」

『たべてるよ』

「そう、おいしかった?どんなおかず?」

『ママ、あのね、ゆうか忙しいの』

「いそがしい?」

『いまとおってもいそがしいの。だいじなごようじのさいちゅうなの。だから、おわり』

「え、あ、そう。じゃ、バイバイでいい?」

『うんバイバイ。ママいい子でいるんだよ。バイバイバイ!』

 誰かに受話器が手渡される気配があった。

「あ、あたしよ。優花ちゃんすぐに電話取るもんだから油断ならないわ」母の声だ。

「おかあさん、ごめんね、いきなり迷惑かけて」

「まあしょうがないわよ、こうなったらきちんと治してから退院してきてちょうだい」

「ゆうか、ぐずってない?家ではわたしがトイえ…に入…だけでドアの外から叫び続け…くらい甘えっ子だったから、心配してたんだけど」

「いい子よ、ちっともぐずってないわ。むしろいい子すぎるくらい。あんたの子にしては上出来ね」

思ったよりあっさり電話を切られて、何か恋人に振られたような気分になった。

 こちらが思うよりあの子は環境への順応性が高いのかもしれない。一人では生きていけないのは、三歳の娘ではなくおそらくわたしのほうなのだろう。安心したようなおいて行かれたような複雑な気分で、わたしはぼんやりと病室に向かった。


「あなた、まあ、どうしたのその顔! それ、こぶ?」

 部屋の中から無遠慮な声が聞こえて来る。

「あの、できものだと、お医者様には言われまして……」

 堺さんが、ベッドに半身を起して、困ったように掃除のおばさんに答えている。

「へえ、それにしてもその大きさになるまでよくほっといたものだわね。まるで日本昔話ね。へええ、まあ、驚いた」

 ゴミを集めた袋をぶら下げて、わたしと入れ替わりにおばさんはどすどすと出ていった。よくもあれだけ無遠慮に思ったことを口にできるものだ。気の毒に、堺さんは下を向いて小さくなっている。

 何となく視線を合わさないようにベッドに戻る私に、背後から声がかかった。

「ご主人、今日はおいでになるの」

「はい?」

「やさしそうで、いいわよね」

 振り向くと、細い目でこちらを見ている。

「……そうですね」

 なんとも言いようがなくて、ただそれだけを答える。堺さんは下を向いて、ため息をついた。

「あの子、今日は遅いわ」

「娘さんですか」

「そうなのよ。勤めているから仕方ないんだけどね。先生なの、小学校の先生」

「それはおいそがしいでしょうね。大変なお仕事ですし」

「昔から頭がよくてね、しっかりしててね。いい子なのよ」

 灰色の髪をアップにして、笹をあしらった浴衣のような寝巻を着た堺さんは、どこか華族的な品のよさがあった。こぶに気をとられなければ、顔立ちも美しい。夜中の大騒ぎとイメージがどうも結びつかない。あれは夜だけの幻覚なのだろうか?

「あら、あなた」

 堺さんは、ふと私の顔に目を止めると、悲しそうな表情になった。

「大変だわ。こっちへいらっしゃい」

「はい?」

 点滴台ごと寄って行き、手招きされるままに背をかがめる。

「血が出てるわよ。痛いでしょう」

 いきなりぬれティッシュを取り出して、わたしの唇を拭こうとする。

「いえ、これは……」

「じっとして」

 背中に細い手を回し、丁寧に唇をぬぐう。そっとそっと、宝ものでも扱うように。

「痛いわねえ、痛いでしょう」

「あの……」

「可哀相にねえ、若いお嬢さんなのにこんな目にあって」

 細く、荒れて乾いた、やさしい指。

 その人の肩からは、岡山の祖母の家の陽だまりの畳のような、懐かしくひなびた香りがしていた。


「はい、これ、頼まれてた本」

 淳也が病室に姿を現したのは、夕食の膳が運ばれてから30分ほどしたころだった。

 カラフルな幾何学模様のイラストに、「家庭の医学」という赤いゴシックのロゴの表紙。

「愛読書だよね。あまり読みこんで悪い方へばかり想像を転がさないように」

 さすがにわたしの性癖をよく知っている。どういうわけか昔から、わたしは医学書をめくるのが好きで、主だった病名と治療法はほとんど頭に入っていた。全身の神経組織や血管や内臓の断面図を眺めると、もう目が離せなくなる。

「あり、がと」

 べたべたする口でわたしは答えた。淳也はプレートの上を見て顔を曇らせた。

「ほとんど食べてないじゃない」

「だっていたいんだもの」

「痛くても栄養とらないと治らないよ」

「何を食べても、いたいだけ。傷に辛子を塗り込むようで。あなたにはわからない」

 淳也はわたしの前にプレートを押しだした。

「じゃあここで励ましてあげるから食べる。手を握っててあげるから。毎日、夕食の時間に間に合うように来るから」

 毎日、間に合うように来る。その言葉に背中を押されて、わたしは渋々薄い野菜スープを口に運んだ。ひと口含むだけで、ありとあらゆる味が針のように舌と口内を襲い、痙攣したように舌があらぬ方向にひきつれる。

「……!!」わたしはスプーンを置いて口を押さえた。

「ほらがんばれ、がんばれ。後せめてふた口、いや、三口でいいから」

 淳也はわたしの背中をさすりながら言う。

 隣のベッドでは、堺さんのお嬢さんが、好き嫌いの多い母親相手に奮闘していた。

「おかあさん、これで終わりじゃ体が持たないわよ」

「なにもかにも、もうたくさん」

「ちっとも沢山じゃないわ。林檎持ってきたから、むいてみる?」

「わたしがむいたげるから、あなたお食べなさいよ」

「それじゃ何にもならないのよ。おかあさん、何なら食べられるの?」

「なにもかにも、もうたくさん。ゆりこちゃん、あなた職場にお友達はできた?」

「なに関係ないこといってるの。さあ、食べて」

「なにもかにも、もうたくさん」

 二つのベッドで、食という戦いから逃亡しようとするふたつの背中を、それぞれの援軍が押している。

 様子を見に顔をのぞかせた杏嬢が、くすりと笑ってそのまま病室を出て行った。


「それじゃ、おやすみなさい」

 夜勤の看護婦さんが部屋の灯りを消して出ていってすぐ、わたしは枕元のスタンドをつけ、医学書のページをめくった。……まず索引から。

 ベーチェット病。

 自分の症状と、「目の検査」と、「ベー」という言葉を聞いてすぐ、頭に浮かんだ病名だ。

多分間違いない。わたしには確信があった。


 ……ベーチェット病。トルコのベーチェット氏が発表した疾患。主に皮膚と口腔粘膜、目を侵す。二十代から三十代にかけて発症しやすく、再発を繰り返すしつこい口内炎で始まる。

 そのうちに全身の皮膚に化膿しやすいできものが多発したり、皮膚粘膜部分に痛みを伴う、再発性の潰瘍、下肢に赤いしこり、関節痛などが繰り返し起きる。進むと目を侵され、多くは強い虹彩炎を起こし失明する。また脳にいたって精神症状を起こすこともある。原因は不明。


 大体の概要は知っていた。それを確認してページを閉じた時、特に感慨はなかった。ただひとつ、だとしたら死ななきゃ、あっさりとそう思った。

 失明、精神症状、繰り返す全身の皮膚炎と口内炎。全部そろえばわたしは家族のお荷物になるだけ。わたしにただ幸せをくれた淳也と優花の重荷になるわけにはいかない。

 点滴を手に立ち上がり、窓辺に寄りながら考える。ここは三階、飛び降りてもたいてい失敗する高さだ。他に病院で人目につかないスムーズな方法というと……

 けれどまだ診断も出ていない。まだ治る段階かもしれない。病名を当てはめただけでとっとと死のうなどと考えるのは、懸命に病気と闘っている人に対しても不遜なことだ。

 まだ時間はある、急がず覚悟だけ決めておこう。そう一人の胸につぶやき、そっとベッドに腰掛ける。

 ゆうか。

 もしも万が一わたしがいなくなっても、ちゃんとすぐに忘れられるよね、まだ小さいから。

 だったら安心。だったら、何の心配もない……



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