その1 入院
「海藤あすかさん、24歳ね。待合室で倒れたって?」
せんだみつお似の医者が眼鏡を持ち上げて、不思議そうな視線をわたしに向けた。
無理もない、総合病院の耳鼻科の待合室で倒れる患者はそういないだろう。これから彼のことはみつをと呼ぼう、と胸の中で何となく決めてみる。
「一週間ほど、口内炎でまともに食べられてないので、ちょっとふらふらして」
わたしは背を夫の淳也の手に支えられながらようやっと答えた。
「口あけて。大きく。おお、こりゃまた」
口を開けるだけで、ひび割れた唇から流血するのがわかる。口内のしびれるような痛みは、へらで舌を押さえられるだけで焼け火箸をあてられたように燃え上がった。
「すごい口内炎だな、アフタがフジツボみたいになってますよ。これじゃ水も飲めないでしょう。熱もあるって?」
「今測ったところでは39度ですね」
年輩の看護婦が横からデジタル体温計を見せた。
「耳鼻科の範疇かなあ。なんでこの科へ?」
「さあ、受付で症状を言ったら、よくわからないのですいてる所に回しますといわれまして」淳也が気弱に答える。背を支えられても椅子からずり落ちそうになるほど、体に力が入らない。小さな資料棚の上には金柑の乗った小さな鏡餅があった。
「発熱はいつから?」
「一週間前、沖縄旅行から帰った翌日、いきなり38度以上の熱を出しまして。でも気分は悪くないと本人がいうから静観してたんですが、四日ほど前から39~40度台に上がって下がらなくなりまして……」
「40度の熱があって医者にかからなかったの、今まで」
「娘がまだ三歳で妻以外になつかないし、年末年始で病院はやってないし、家をあけられないと本人が言うもので」
医者はカルテを置いて上目遣いに淳也の顔を見た。
「これだけ高熱で食事もとれないなら救急車呼んでもいいんですよ。子どもの世話させてる場合じゃないよ、顔なんて真っ白じゃない。見たところ栄養がどうというより脱水起こしてるね、ほら、押しても皮膚が元に戻らないでしょ。亭主失格ですよ、あなた」
たたみかけられて、淳也は小声ではあと言ったきり黙った。 ……しかたないじゃないか正月だもの、みつを。
「とりあえず今日から入院してもらいますよ。可能かどうか空きを今調べるからね。あのさ、耳鼻科でいいから空きベッド……」うしろを向いて看護婦に大声で呼びかける。
「今日から、ですか?」わたしは思わず背を起こした。みつをが大きな眼でじろりとこちらを見る。
「用意もないし、子どもは小さいし、今は母が見ててくれてますけどいつまでも頼めないですし、あの、通いじゃダメなんでしょうか? お薬をいただければ私ちゃんと……」
「薬の問題じゃないでしょう。飲まず食わずじゃ人間生きられないんだよ。じゃあ毎日その体でここへ通って点滴受けますか? 今日はもう四日だけど、仕事始まったらご主人以外に誰があなたをここへ運んでくれるの?」
怒気を含んだ医者の言葉に気おされて私は黙った。
引き続き医者から説明を受ける夫を置いて、そのまま車いすに乗せられ、準備のできた病室まで、看護婦に付き添われて向かう。
リノリウムの床、愛想のない窓、冷ややかな薬の匂いとかすかな糞便の匂い。この異次元の風景の中に今日から閉じ込められるなんて考えてなかった。
……ママはちょっと病院にお薬もらいにいってくるけど、すぐに帰るから、ええと、夕方には帰るからね。
膝にまとわりついて甘えていた優花の顔が目に浮かび、ママかえってきてね、いいこでまってるからね、と繰り返す幼い口調が反響する。
優花に嘘をついちゃった……
自分の病気がこの先どうなるというより、その一つ事だけが胸にしこって、あとからあとから溢れる涙が止められなくなっていた。
子どもを産んだら強くなれると聞いた。
でも私の場合は逆に出た。
学生時代、家にもこの世に対しても無頼を気取っていたころ、自分の命なんてこの世そのものの圧倒的な空しさに比べたら取るに足らないものだと思っていた。
生きている間にすることは、この世に負けないくらい空しい自分が、ひとに一番近いひとの偽物になることだ。そのために学校に通い結婚もし、しばらくこの世界と遊んでみようか。
そんな風にうそぶいていたのに、いざ結婚し子どもを持ってみたら、それは私の命より世界そのものより、果てしなく大切な存在になってしまった。
そのコペルニクス的展開は、出産と同時に起こったのだ。
立ち膝の間から助産婦の手に受け止められた命。好きな姿勢で産んでいい助産院での出産だった。湯気の立ちそうな赤ん坊を腕に抱かされ、涙で前がよく見えないまま夫と手を携えて青いへその緒を切った。ゴムのような固い手触りがあって、ひとつだった娘と私はばらばらになった。
だれかを、交換条件抜きで、こころから愛する。いとしいと思う。失い得ないものを手に入れてしまう。
それが、その瞬間がそのとき生まれて初めて、こころの痩せたわたしに訪れた。
優花はほんとうに美しい娘だった、肌から髪から顔立ちから何もかもが。
目を開ければ鈴を張ったような目とわたしの母はいい、この子は目千両だと姑は繰り返した。目を閉じれば、なんと神々しい、仏さまのような顔かと二人手を合わせる。三歳前の寝顔には神が宿る、とどこかで聞いたが、私はその時、であったことのない神に会ったのだ。
そうして私には弱点ができた。
病気が怖い、事故が怖い、犯罪が怖い、未だに大量破壊兵器を作り続けているすべての国が怖い。幼い無力な命を塵ほどにも顧みない国家間の悪意が怖い。
私が私を失うことよりも、娘に私を失わせることが怖い。娘を失う恐怖なんて考えられない。私は生きて守らねばならない、あの美しく、いとしい存在を。だから死ぬのは絶対に嫌だ。私はどうしてもこの子を失えない。この子の母親としての自分も絶対に、絶対に、失えない……
「早く治して家に帰りたいですよね。頑張りましょうね」
点滴の袋を確認しながら、若い看護婦さんが言う。このひとは女優の杏に似ている。針を刺されながら黙って涙を流す私の顔を、ずっと見ないようにしていた。最初にかける言葉を選んでいたのだろう。
「面会は基本的に子どもはだめなんですよね?」
診察室で渡された、入院に際しての注意事項のパンフレットに目を通しながら聞いてみた。
「そうですね、感染症の可能性を考えてご遠慮いただいてます。お子さん小さいとご心配ですよねえ」
「いえ、仕方ないですから……」
杏嬢は携帯していた鞄から小さな鏡餅を取り出した。
「診察室で見てらっしゃったでしょ、これ」
ベッド脇の整理棚の上にチョンと置く。
「お正月用に私がまとめ買いしたんです。今だけの入院特典。これはおまけ」
小さな金柑を乗せると、にっこり笑って病室を出て行った。
冷たい白い病室のそこだけに、ぽっと色が灯った。
ごうんごうんごうん、ごうんごうん……
低空飛行の飛行機の音?
いえ、足元から響いてくる、これはあの記念館の展示室のBGM。
壁一面に並べられた少女たちのモノクロ写真。無言でこちらを見る思いつめた真摯な瞳、お下げにおかっぱの無垢な少女たちの顔、顔。
『この少女たちは誰ひとり、生きて戻ることはありませんでした……』
「ママ、優花ここ嫌い。ここ、出る」
ごうんごうんごうん……
……塹壕熱。主に2次世界大戦中の兵士にみられた。急性熱性疾患で,ときに発疹を伴う。兵士やひめゆりの少女たちが避難した塹壕でしばしばこの疫病がはやり、多くの命を奪った。症状は発熱,脱力,めまい,頭痛,背痛。発熱は40度を超えることもあり……
「ママ、泣いてる? ママ、ここ出ようよ」
神様。
……この少女たちは、みんな死んだ。
「こんにちは。今日から同室でお世話になります、堺と申します」
「あ、こちらこそ。海藤といいます」
ざわざわとした気配で目が覚める。
ベッドを囲む白いカーテンは壁のようで、窓側から差し込む茜色の光がぼんやりとあたりを染めていた。
「あ、起きた?」淳也がカーテンを開けて顔を出す。
「朝?夕方?」
「今は夕方だよ、まだ入院した日のね。よく眠ってたね、熱が高いからかな」
ベッドの周りのカーテンを淳也がさっと開ける。窓の外、病棟と隣のビルとの間から、とろりと赤い飴玉のような夕日が沈みかけているのが目に入った。
わたしは日の入りを見るのが好きだった。
よかった、ここからなら夕日が見える。
あたりを改めて見回す。ここは三人部屋で、埋まっているのはここと隣のベッド。こちらに背を向けてベッドに腰掛ける老女の脇に、付き添いで来たらしい40がらみの女性が世話をしていた。
淳也はボストンバッグからごそごそと日用品を取り出し始めた。
「いったん家に帰っていろいろと持ってきた」
「ね。……ひめゆり記念館に行ったときに」
「ん?ああ、行ったね。何、いきなり」
コップやスリッパ、タオル歯ブラシが次々とそれぞれの場所に収められていく。
「塹壕の模型って、あったよね」
「ああ、あったね。ママずいぶん長いことその前に立ってたよね」
「塹壕熱についての説明、読んだ?」
「ええと、ざんごうねつ?そんなものあったっけ……」
「戦争中塹壕内部ではやった病気で、確か高熱が一週間くらい続いて、それから……」
がらがらとワゴンを引いて看護婦が部屋に入って来た。杏嬢ではない、もう少し年かさだ。まず隣の二人に声をかける。
「堺さん、これ入院に当たっての注意書きです。個室をご希望のようですけど、今は空きがないのですみませんね、一週間以内には出る方がいらっしゃるのでその時にご案内しますから。じきに先生の回診があります。体温測っててもらえますか」
軽くお辞儀をした老女の横顔を見てわたしはびっくりした。顔の半分はあろうかという大きな「こぶ」が、頬からぶら下がっていたのだ。まるでおとぎ話のこぶとり爺さんの挿絵そのままに。
「海藤さん。午前中の体温が39,3ですね。氷嚢いりますか?」
「あれはあまり好きじゃないので……」
「お熱の割にはしゃっきりしてますね」
「発熱してもう一週間ですし、慣れました」
看護婦は小さく笑った。
「慣れてこたえなくなるなら大した体力ですね。採血しますので腕を出してください」
台の上に腕を乗せる。肘近くをゴムのチューブで縛り、浮いた血管を指先で確かめる。
「はい、ちょっとちくっとしますよ」
小さな瓶に次々と赤黒い血液が納められてゆく。勿体ない、ただでさえ体力消耗してるのに。
「優花はどうだった?」心持ちおなかの奥に力を込めて、さらっと聞いてみる。
「駄々をこねるかと思ったら、わりといい子にしてたな。入院のこと話したら、ふーんて言ったきり黙っておばあちゃんの胸に顔うずめてた。君ん所のお母さんだけじゃ手に余るだろうし、俺のところのお袋にも電話しといたから、明日から交代で見てもらおう」
「うん……」
たしかに長時間、母に優花を頼めない事情はあった。昔結核を患ったせいで肺活量が常人の半分、喘息持ち。加えて、あまり母の手を患わせたくない意地もあった。
あんたが結婚? あんたに子育てができるの? ご主人もいろいろ苦労するでしょうねえ、そんな子供のまんまで、まだ薬も手放せない癖に。
優花の存在がわかると同時に籍を入れたわたしに向けられた母の言葉……
ワゴンごと看護婦が隣のお婆さんに移ると同時に、主治医のみつをが入って来た。
「どうですか具合は。ちょっと口あけて」
せんだみつおにも似てるし、チャーリーとチョコレート工場のウンパルンパにも似ている。
胸の名札で、名前が森脇であることを初めて確認した。
「ううん。これはねえ、とりあえず、真菌症を疑ってみましょう。最初の診察の時口内組織を採取しましたから、明日結果が出ます」
「しんきんしょう?」
「カビの一種ですよ。人体のいろんな部位に生息していて、普通は人体に害を及ぼしません。しかし、抵抗力の弱っている時、抗生物質やステロイド剤を服用している場合などに、症状を引き起こしやすくなります。喘息治療に使用する吸入薬とかでも口の中に口内炎を発症することもあります。使ってませんよね?」
「吸入薬ですか? いいえ」
「まあ一応、抗真菌剤と塗り薬を出しましょう。唇のひび割れもなんとかしないとな」
「あの、このしつこい発熱もそっちの病気ですか?」
淳也が隣から口を挟んだ。
「いや、そっちは別でしょうね。そもそも発症から見てないから何とも言えないんですが、とにかく高熱で体力を奪われてる状況で真菌に捕まったということくらいしか。 一応お望みなら解熱剤もお出ししますが……」
「あの、抗真菌剤って強いんでしょうか。わたし眠りが浅くて、緊張すると眠れなくなるので、できれば軽い入眠剤をいただきたいんですが、それと解熱剤となると……」
「ああそりゃあちょっとパンチきついな。抗真菌剤と、たとえばハルシオンとかは禁忌なんですよ。じゃあ解熱剤よりも入眠剤のほうが必要?」
「はい、できれば」
「軽い安定剤程度ならいいかな。じゃあデパスを処方しときましょう」
病室から出て行く医者の背中に、最後の瞬間まで、かけようと思っていた言葉を飲み込んだ。
……先生。塹壕熱って、知っていますか?
「明日から仕事なんだ、でも帰りに必ず寄るから」
淳也はそう繰り返して帰って行った。
日が沈んでしばらく、白い部屋の中は茜色に染められていた。
「あなたもう帰っちゃうの? いやだわ私、こんなところに一人で」
「お母さん、明日も来るから、ね、ね」
勝ち気そうな、ベリーショートに眼鏡の娘さんが、老母の手を優しくほどこうとして難儀している。ふとこちらに視線を向け、苦笑しながら頭を下げた。
「いろいろご迷惑おかけするかもしれませんが、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
灰色の髪を上品にアップにした老母は俯いて、膝の上で握りしめた桃色のタオルをもみしだくようにしていた。