第一話 閉館を知らせるブザーが鳴らなかった
返却棚に本を戻すとき、澪はいつも、少しだけ余計なことを考える。
誰にも言ったことはない。言えば変人扱いされるし、たぶん実際、普通ではないのだろう。
けれど澪には、本に触れたとき、その本がどう読まれたかが、ほんのわずかにわかった。
乱暴にめくられたページには焦りが残る。何度も読み返された行には熱が残る。途中に栞が挟まれたまま長く止まっていた本には、そこで足を止めた誰かの逡巡が沈んでいる。
それは声ではない。記憶でもない。
あえて言うなら、読まれ方の癖だ。
「また難しい顔してる」
声をかけられ、澪は顔を上げた。
カウンターの向こうで、非常勤の安田が笑っていた。五十代半ば、朗らかで、少しおしゃべり。利用者には親切だが、閉館が近づくと急に帰る支度が早くなる人だ。
「してました?」
「してた。恋愛小説の棚にいるときだけ、あんた、たまにそういう顔するよね」
「偏見じゃないですか」
「偏見じゃないよ。観察」
安田は貸出処理を終えた本をカートへ載せながら、ひょいと肩をすくめた。
「ほら、閉館まであと三十分。今日、雨降りそうだから、最後の利用者出たら早めに締めるって大島さんが言ってたよ」
「了解です」
「無理しないで。返却は明日に回してもいいから」
「大丈夫です。もう少しで終わります」
「若いねえ」
「そういう問題ですか」
「そういう問題」
安田が笑う。澪も少しだけ笑った。
その何気ないやり取りが、この日最後の、まともな会話になるとは思わなかった。
*
午後六時三十二分。
市立図書館の夕方は、独特の静けさに包まれる。
昼間のざわめきが抜け、館内に残るのはページをめくる音、椅子を引く音、遠くの咳払い、空調の低いうなり。静寂が一枚ではなく何層にも重なっていくような時間だ。
澪は返却カートを押し、恋愛小説の棚に本を戻していった。
背表紙を指でなぞる。
淡いピンクの装丁。青い箔押し。使い込まれた文庫。新しすぎる単行本。
その中の一冊に、指が止まった。
――最後まで読まれていない。
そう感じた。
途中までは熱心に読まれていた。けれど終盤で急に温度が途切れている。読者がページを閉じた、その瞬間のざらつきが残っていた。
「……なんで」
小さく呟いて、自分で首を振る。
そんなことを考えても仕方がない。仕事中だ。
棚へ戻し、次の本へ手を伸ばす。
そして、そのとき。
最初の違和感が来た。
閉館ブザーが、鳴らない。
澪は顔を上げ、時計を見た。
七時四分。
「え?」
いつもなら、午後七時きっかりに短いブザーが鳴る。それが合図になって、館内放送が流れ、利用者が出口へ向かい、職員は確認に散る。
四分も過ぎているのに、何もない。
澪はカートのハンドルから手を離した。
「……安田さん?」
返事はない。
恋愛小説の棚を抜け、カウンターへ向かう。足音がやけに大きく響いた。
カウンターに誰もいない。
さっきまで安田がいた場所に、マグカップだけが残っている。まだ少し湯気が立っていた。大島の席のパソコンはスリープ状態で、青いランプだけが点滅している。
「大島さん?」
澪はカウンターの裏へ回った。
「安田さん、閉館ブザー……」
言いながら事務室のドアを叩く。
こん、こん、こん。
返事はない。
「失礼します」
ドアノブを回す。開かない。鍵がかかっていた。
「は?」
思わず素の声が出た。
さっきまで人がいたのだ。全員が一斉に姿を消し、しかも事務室に鍵までかける。そんなことがあるわけがない。
澪はもう一度、今度は強めにノックした。
「大島さん? 安田さん? いますよね?」
無音。
耳が痛くなるほどの、無音。
その静けさの中で、返却口だけが半開きになっているのが見えた。
外から返された本が落ちるはずの口だ。普段なら閉館時にはきちんと閉じられている。
「……誰か、いたの?」
自分で言って、背中が冷えた。
誰かがいた。
そう考えるほうが自然だ。
でも、その「誰か」はどこへ行った?
*
視線の端で、何かが動いた。
返却棚の陰。
白い紙くずみたいな、小さなかたまり。
澪は反射的に身を引いた。
「っ!」
そいつはぴたりと止まった。
紙を丸めたように白くて、小さい。だが紙くずではない。ふわりと耳があり、しっぽの先が栞の房みたいにふさふさしている。いちばん異様だったのは目だ。白い身体に似合わない、インクを垂らしたような真っ黒な目が、澪を見ていた。
「なに、それ……」
小さな生き物は、口に貸出票をくわえていた。
じっと見つめ合うこと、ほんの一秒。
次の瞬間、それは身を翻し、書架の隙間へ飛び込んだ。
「あ、待って!」
追いかけようとした、そのとき。
頭上の蛍光灯が一本、すっと消えた。
ぱちん、ではない。
じわ、と音もなく消えた。
澪は足を止める。
もう一本、消える。
その次も。
遠い棚列から順番に、灯りが落ちていく。停電ではない。消えているのは一列ずつだ。まるで何かが、館内の明るさを端から丁寧に回収しているようだった。
「ちょ、ちょっと待って……」
天井のスピーカーが鳴った。
ざ、と短いノイズ。
続いて流れたのは、女の声だった。
「未返却本の回収を開始します」
抑揚がない。
人間の声のはずなのに、感情だけがきれいに削ぎ落とされている。
澪の喉がひくりと動いた。
「館内に利用者が一名、残留しています」
「利用者じゃなくて、バイトです!」
反射で言い返した。
自分でも情けないと思うほど、即答だった。
しかし放送は止まらない。
「未処理の残留者を確認。分類を開始します」
「分類……?」
背後で、ことり、と音がした。
振り返る。
棚に収まっていた本が、一冊だけ、少し前へ滑り出ていた。
ことり。
また一冊。
こと、こと、こと。
次々と本が飛び出してくる。背表紙が揃ってこちらを向く。その動きは大きくない。ほんの数センチ。だがそれが余計に気味が悪かった。
誰かが本棚の内側から押しているみたいだ。
「……うそでしょ」
澪は後ずさった。
同時に、何冊もの本がぴたりと止まる。
背表紙が、並ぶ。
タイトルが見える。
失恋、追放、忘却、回帰、再会、断罪、約束――。
どれも誰かの人生みたいな言葉だった。
その全部が、こちらを見ている気がした。
「いや、無理……!」
澪は走った。
*
北側非常口。
緑の避難口表示が見えた瞬間、少しだけ安堵する。
あそこを開ければ外に出られる。そう思って、駆け寄って――澪は止まった。
「……なに、これ」
表示板が白かった。
いつもの緑色ではない。白い板に、黒い文字だけが浮かんでいる。
**最終章へ**
意味がわからない。
澪はドアノブを掴んだ。冷たい。回らない。押しても引いてもびくともしない。
「開いて、開いてよ……!」
正面玄関へ向かう。
自動ドアは反応しない。手でこじ開けようとしても、まるで一枚岩みたいに動かなかった。
ガラスの向こうを見て、澪は息を呑む。
夜の街があるはずだった。
けれどそこにあるのは、道路と街灯と、白い霧だけだ。
向かいのコンビニがない。駐車場がない。電柱の位置すら違う気がする。見慣れた街の輪郭が、誰かに消しゴムでこすり取られたみたいに曖昧になっていた。
「……やだ」
スマホを取り出す。
圏外。
「うそでしょ」
電源を入れ直す。変わらない。地図アプリは真っ白なまま固まり、メッセージ送信は失敗し、通話は繋がらない。
通用口へ走る。
だめ。
搬入口へ走る。
だめ。
どの扉の表示も、いつの間にか白く塗りつぶされ、同じ文字だけを示していた。
**最終章へ**
「何なのよ、それ……!」
叫んだ声が、館内に吸い込まれる。
返事はない。
代わりに、どこかで紙をめくる音がした。
一ページずつ、ゆっくりと。
*
澪は壁の館内案内図の前で足を止めた。
透明なアクリル板はある。だが、その下の印刷が消えていた。
「……は?」
白紙だ。
完全に白い。
けれど指でなぞると、そこに凹凸だけが残っているのがわかった。消えたのではない。見えなくされている。
澪は息を整え、指先を動かした。
一般書庫。
児童書コーナー。
郷土資料室。
参考図書室。
そして、そこにないはずの文字。
**終章閲覧室**
その四文字に触れた瞬間、アクリル板の内側を白い影が走った。
「わっ」
さっきの小さな生き物だ。
板の裏を泳ぐように走り抜け、そのまま「終」の字にかじりついた。
ばりっ、と乾いた音。
文字の輪郭が一瞬だけ崩れた。
「……え?」
白い板に生まれたひびのような乱れを、澪は見逃さなかった。
絶対に変えられないように見えた表示が、傷ついた。
壊せるのか。
いや、少なくとも、揺らせる。
「あなた、さっきの……」
白い小獣は板の向こうから黒い目で澪を見た。そして鼻先で板をこつんと叩くと、また書架の隙間へ消える。
同時に、館内の奥で、重い音が鳴った。
ご、と。
書架が軋む音だ。
澪が振り返る。
本棚が、動いていた。
重い金属製の書架が、誰にも押されていないのに、床の上を滑るように位置を変えていく。通路が閉じ、別の通路が開く。棚と棚のあいだに、一本の細長い回廊が形づくられていく。
「うそ……」
その先に、人影があった。
*
少年だった。
澪と同じくらいか、少し年上。学生服の上に、紺色の羽織を重ねている。図書館職員の上着に似ているが、どこの館にもない意匠だった。襟元には見たことのない銀の留め具。左袖には、しおりを交差させたような刺繍。
顔立ちは整っている。
けれど、それ以上に目を引くのは表情の薄さだった。怒りも焦りも恐れも見せない。感情があるのに、すべて棚の奥へしまい込んでいるような顔。
澪が一歩踏み出そうとした、その瞬間。
少年は懐から白い紙札を抜いた。
投げる。
紙札は澪の三歩先でぴたりと止まり、空中に貼りついた。
札の向こうの空気が、水面のようにゆらいでいる。
「立ち止まってください」
低く、淡々とした声だった。
「そこから三歩進むと、あなたは本に配役されます」
澪はぴたりと止まった。
「……は?」
「この距離で止まって」
「いや、意味がわからないんだけど」
「わからなくて構いません。止まっていれば、まだ大丈夫です」
「大丈夫に見えないから聞いてるの!」
澪は声を荒げた。
「さっきから館内放送は変だし、扉は開かないし、外は変だし、本棚は勝手に動くし、いま『本に配役される』って何? 何の冗談?」
「冗談ではありません」
「じゃあ何」
「業務です」
「は?」
「閉館後の回収業務です」
「意味わかんない!」
少年は少しだけ目を伏せた。困ったようにも見えたが、たぶん気のせいだ。
「説明を簡潔にします」
「最初からそうして」
「ここは現在、通常の図書館ではありません」
「全然簡潔じゃない」
「閉館に失敗しました」
「閉館って失敗するものなの?」
「今回はしました」
「何でそんな事務連絡みたいな言い方なのよ……!」
澪の声が少し裏返る。
怖い。怖いのに、目の前の少年が妙に落ち着き払っているせいで、怒りのほうが先に出る。
「あなた、誰」
「カナメ。返却業務に従事しています」
「司書さん?」
「司書ではありません」
「じゃあ何」
「返却係です」
「聞き方を変える。人間?」
カナメは一拍置いた。
「この質問は、状況が悪化したときにもう一度受けます」
「答えてないよね?」
「いま答える優先度は低い」
「こっちにとっては高い!」
澪が言い終えるより早く、白いものがひゅっと飛び出してきた。
さっきの小獣だ。
それは澪の足元を一周し、するりと紙札の近くまで走って、端に歯を立てた。
「こら」
初めて、カナメの声に感情が混じった。
低いが、明確に咎める響き。
小獣はびくっと耳を立て、しかし逃げない。黒い目でカナメを見上げ、次に澪を見る。
「この子……」
「野良の棚守です」
「棚守?」
「図書館に棲む小妖の一種。通称、字喰い」
「字喰い」
「文字そのものを食べるわけではありません。余分な言葉を食べます」
「余分な言葉?」
「嘘の飾り、読み捨てられた美辞麗句、本心でない文章、書かれたまま誰にも届かなかった言葉。そういうものを噛んで、生き延びる」
「……変なの」
「同意します」
字喰いが、ふすっと鼻を鳴らした。
「怒った?」
「たぶん」
「わかるの?」
「多少は」
小獣は紙札をまた噛もうとする。カナメが指先を上げると、札の周囲に薄い光が走った。字喰いが毛を逆立てた。
「痛いことしないで」
澪は思わず前に出た。
「危ない」
カナメが即座に言う。
「いや、でも」
「そこから先は境界です」
「でも、この子、さっき文字を壊した。助けてくれたんじゃないの?」
「助けたわけではありません。気分で噛んだだけです」
「それでも」
澪は字喰いとカナメのあいだに立った。
自分でもなぜそんなことをしたのかわからない。ただ、この白い小獣は、無条件に危険なものには見えなかった。少なくとも、本棚の奥からじっとこちらを見ていた本たちよりは、ずっとましだ。
カナメが澪を見た。
初めて、わずかに目を細める。
「その判断は非効率です」
「あなた、さっきから効率でしか喋らないの?」
「効率は大事です」
「気持ちは?」
「いまは後回しです」
「私は後回しにしたくない」
一瞬の沈黙。
そのあと、カナメがごく小さく言った。
「……覚えました」
「え?」
「いえ、記録しました」
「怖い言い方しないで」
そのときだった。
回廊の奥から、風が吹いた。
紙の匂いを含んだ、乾いた風。
次の瞬間、無数のページが舞い上がった。破れた紙片、書き損じ、栞、貸出票、ラベルの欠片。文字を載せたものばかりが渦になって、回廊の先へ吸い込まれていく。
その中心から、声がした。
「ねえ」
女の声だった。
若い。けれど擦り切れている。
「結末まで、読んで」
澪の背筋に冷たいものが走る。
誰かがいる。
本当に。
この先に。
「……誰かいる」
澪が呟くと、カナメが短くうなずいた。
「います」
「助けられる?」
「まだ、わかりません」
「じゃあ助けに行く」
「即決ですね」
「だって、聞こえた」
「たいていの人は、聞こえても逃げます」
「逃げ道がないじゃない」
「それもそうだ」
初めてカナメの声に、ごく薄い笑いが混じった気がした。
たぶん、本当にわずかに。
そのとき天井スピーカーが再び鳴る。
「最終章まで、退出は認められません」
澪は顔をしかめた。
「最終章、最終章って、さっきから何なの」
「物語の最後です」
「そんなのは知ってる」
「ここでは少し意味が違う」
「どう違うの」
「選ばれた人間が、結末の役を押しつけられる場所です」
「……配役って、そのこと?」
「はい」
「じゃあ、本に配役されるって」
「その本の役になる」
「嫌すぎる」
「同感です」
「同感なんだ……」
「だから止めています」
カナメは二枚目の札を指に挟んだ。
「あなたには適性があります」
「うれしくない情報」
「本に読まれやすい」
「もっと嫌」
「だから、たぶん狙われた」
ぞわりとした。
自分が本を読むのではなく、本に読まれる。
それは澪にとって、言葉にしがたいほど嫌な響きだった。
字喰いが、ひょいと跳んだ。
澪の肩に乗る。
「え」
軽い。思ったよりずっと軽い。紙束一冊分くらいしか重くない。ふわふわの尾が頬をかすめた。
カナメが少し目を見開く。
「珍しい」
「何が」
「人には懐きません」
「懐かれてるの?」
「少なくとも、嫌われてはいない」
字喰いは澪の肩の上でくるりと丸まり、それでも回廊の先から目を離さなかった。
床を見ると、墨で描いたような小さな足跡が続いている。獣の足跡に似ているのに、どこか文字の払いみたいでもある、不思議な跡だ。
先へ行け、と言っているように見えた。
怖い。
ものすごく怖い。
足が震えているのが自分でもわかる。
けれど、怖いからやめる、では済まないと、もう知ってしまった。この図書館は、出口を全部消した。なら前へ行くしかない。
澪は一度だけ大きく息を吸った。
「聞きたいこと、山ほどあるんだけど」
「移動しながらなら答えます」
「全部?」
「可能な範囲で」
「信用していいの?」
「推奨はしません」
「しないんだ」
「でも、いま一番生存率が高い選択肢ではあります」
澪は眉をひそめ、そして小さく笑ってしまった。
「その言い方、最悪」
「よく言われます」
「言われるんだ」
「たまに」
「少しは自覚あるのね」
「あります」
紙の渦が、回廊の奥でさらに強くなる。
誰かのすすり泣くような音が混じった。
澪は肩の字喰いをそっと押さえ、正面を見た。
「……行くよ」
カナメがうなずく。
「はい」
「でも、ひとつだけ先に教えて」
「何を」
「この先にあるの、何」
カナメは回廊の奥を見たまま答えた。
「終章閲覧室です」
「その名前、全然安心できない」
「安心できる場所ではありません」
「じゃあ何でそんな平然としてるの」
「平然としていないと、働けないので」
「働いてるんだ、ほんとに」
「ええ。閉館後は忙しい」
「図書館の仕事ってそういう忙しさなの……?」
「この図書館は、少し特殊です」
「少しで済ませるのやめて」
言いながら、澪は一歩踏み出した。
今度は止められない。
境界札の手前まで来ると、空気がひやりと冷たくなった。カナメが札を指で弾く。見えない膜がほどけ、通れる幅だけ道が開く。
「私、帰れるの?」
澪は小さな声で聞いた。
カナメはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分に嫌な予感がした。
ようやく彼は言う。
「最終章まで行けば、出口はあります」
「その言い方、好きじゃない」
「私もです」
「……じゃあ、もっとマシな言い方して」
カナメは少し考えてから、淡々と告げた。
「帰すために、私はここにいます」
その答えは、不器用なくせに、思ったよりずっと真っ直ぐだった。
澪は一瞬だけ目を瞬かせたあと、ふっと息を吐く。
「わかった。じゃあ信じる」
「早いですね」
「いまは効率重視にする」
「賢明です」
「あなたが言うと腹立つ」
「よく言われます」
字喰いが、くくっと笑ったみたいに喉を鳴らした。
「笑った?」
「たぶん」
「この子、感じ悪いね」
「同意します」
白い小獣はしっぽで澪の頬をぺちんと叩いた。
「痛っ。今の絶対悪口わかったでしょ」
「語彙は豊富ですから」
「字喰いなのに?」
「字喰いだからです」
また、奥から声がした。
「早く……」
かすれる声。
助けを求める声。
澪とカナメは同時に表情を引き締めた。
三人――いや、一人と一人と一匹は、回廊の先を見た。
棚の闇は深く、その奥にだけ、紙のように白い光が揺れている。
閉館を知らせるブザーは、結局、一度も鳴らなかった。
代わりに図書館は、誰にも貸し出されない夜のページを開き、澪をその最初の一行へ立たせていた。
最終章まで、退出は認められない。
なら、読むしかない。
結末まで。




