23日目
まだ、僕の喉は潤っていた。
今はまだ、結衣さんの名前を不快な振動として発することができる。
第23日目。死の、五日前。
今日の課題は【言葉の沈黙と、質量への変換】
幽霊は言葉を持たない。怨念や執着という「重み」だけで、その場を呪いとして定義する。
ならば、僕もまた、言葉を「音」として無駄に放電するのを辞め、物理的な「重石」として体内に沈殿させなければならない。
僕は机の上に、薄く切り出した小さな「鉛の板」を置いた。
釣りの重りを金槌で叩き潰し、平らに成形した自作のプレートだ。鉛は猛毒だが、その重さこそが、魂をこの現世の泥に縫い止めてくれる。
「……ゆ、い、さん」
僕は最後の発声として、掠れた声で彼女の名前を呼び、それから鉛の板を口に含んだ。
不快な冷たさが舌の上を滑り、粘膜を刺激する特有の金属臭が鼻に抜ける。
僕はそれを、奥歯で思い切り噛みしめた。
ギィ、という嫌な音が鼓膜の裏側で反響し、歯列に鋭い圧迫痛が走る。
ただ噛むのではない。僕は、彼女の名前をその板に、僕の「歯の欠片」で刻み込んでいる。
さらに僕は、声帯を無効化するために、喉の奥に指をねじ込み、声を殺した。炎症で熱を持った喉が、鉛の冷たさを求めるように痙攣する。
けれど、その痛み以上に耐え難かったのは、胃の奥からせり上がる「飢え」だった。
あの老人からもらった「パン」はもう、すべて胃の中に消えた。
あのぱんの味を、僕の脳が欲している。あれを食わなければ、あと五日、この意識を保てない。
「……っ、ぁ、あ……」
僕は部屋の隅の、ゴミ箱の底を漁った。
数日前に吐き出した、あの黒い繊維の塊。
胃液にまみれ、さらに不潔に腐敗したそれを、僕は再び口に入れ、鉛の板と一緒に咀嚼する。
砂を噛むような感触。鉛の毒と、血と、カビ。それらが混ざり合い、僕の体内を「死」の色に染め上げていく。
ピコン
スマホの画面が、埃っぽい暗がりに浮かび上がる。01(結衣さん)。
『結衣:佐藤くん、お疲れ様! 今日ね、すごく綺麗な夕焼けを見たんだ。写真送るから、少しでも元気が出るといいな。』
夕焼け。温かな、オレンジ色の光。
その清らかな色彩を見た瞬間、僕は口の中の鉛をさらに強く噛みしめた。
ガリッ、と歯が削れる感触と共に、歯茎から鉄の味が溢れ出す。鉛の毒が傷口から血管へと侵入し、脳を麻痺させていく。
「……あ、が」
もう、声は出ない。ただ、ゴボリと黒い唾液が溢れるだけだ。
僕は震える指で、一言だけ返信を打つ。
『佐藤:ありがとう。僕も今、とても「重いもの」を自分の中に受け入れたところだよ。これで、もうどこにも行かなくて済むんだ』
送信。
僕は口から、ぐにゃりと歪んだ鉛の板を吐き出した。
鈍い銀色の表面には、僕の歯形で構成された「結衣」の文字が、赤黒い血と繊維にまみれて浮かび上がっている。
五日後、君がこのドアを開けるとき。
僕は沈黙という名の重石を飲み込んだまま、最高の表情で君を迎えてあげる。
【記録:第23日目】終了
現場で回収された「鉛の板」には、複数の歯の欠片と、不自然な繊維が付着していた。また、被害者の喉の粘膜には物理的に傷つけられた形跡があり、死の数日前から発声が不可能な状態であったことが推測される。彼の体内からは基準値を超える鉛が検出されており、重金属中毒による精神錯乱が極限状態に達していたと考えられる。




