その後・・・
【精神科医・門倉の手記より抜粋】
「……被疑者・佐藤についての分析は、医学的見地を超えている。彼は単なる自殺志願者ではない。彼は自らを『ウイルス』として設計した。
彼の遺したノートによれば、彼は死を『個の消滅』ではなく『観測者への転移』と定義している。異常なのは、第一発見者である女性(結衣氏)への執着だ。彼は自らの死体を、彼女の脳に一生消えないトラウマという名の『楔』を打ち込むための凶器として作り上げた。
精神医学的に見て、結衣氏の回復は絶望的だ。彼女は、鏡を見る、あるいは角を曲がるたびに、そこに『くの字』の彼を見てしまう。彼女の認知機能はすでに彼によって乗っ取られている。彼は死んでなお、彼女の中で呼吸を続けているのだ彼は成功したのだ。
死をもって彼女の精神を所有し、一生消えない「作品」として、彼女を自分の展示室(檻)に閉じ込めることに。」
【結衣の独白】
「お医者様は、私を病気だと言う。
でも、違うの。
佐藤くんは、ずっとここにいる。」
警察からこっそり持ち出した、あのノート。
一ページ目。彼が書いた狂気の宣戦布告。
最初は、彼がなぜあんなことをしたのかを知りたくて読み始めた。でも、読み進めるうちに分かってしまった。
彼は、私を愛していたのだ。
世界で一番、汚くて、深くて、逃げられないやり方で。
彼がくれた優しい言葉も、貸してくれたノートも、はにかんだ笑顔も、そのすべてが「今日、この瞬間に私を絶望させるため」に計算された、精巧な毒薬だったのだと。
彼を救えなかったという後悔。
彼を愛していたかもしれないという淡い記憶。
それらすべてが、彼が仕掛けた「呪い」によって、ドロドロとした汚物に上書きされていく。
彼がノートの最後に書き遺した言葉が、今も私の鼓膜で彼の声になって響いている。
『結衣さん、君が僕を観測した瞬間、僕たちは一つになった。……次は、君の番だ』
鏡を見た。
そこに映る私の顔は、もう私のものじゃない。
佐藤くんが、鏡の奥から私を見つめて、手招きしている。
彼と同じ、灰色のスウェットを着た私が、そこにいる。
「……分かったよ、佐藤くん。一人にして、ごめんね」
私は、彼が死の当日に使った物と全く同じ、厚さ50mmの吸音材を部屋の壁に貼り始めた。
ガムテープを剥がす乾いた音。静寂が、部屋の温度を奪っていく。
外界の音を消せば消すほど、佐藤くんの声がはっきりと聞こえる。
「僕はここにいる。君の脳を、君の人生を、僕の死体で埋め尽くしてあげたよ」
私は、彼のノートに書かれた「幽霊になるための方法」をなぞり始める。
指を折り、食事を断ち、鏡を買い集める。
ピコン
床に転がしたスマホが鳴る。大学の友人からの心配なメール。
でも、私にはもう届かない。あの笑い声だけが脳内に響く
机の上に置いてあったハサミを手に取った。
自分の髪を、あのレバーに縫い付けられた髪と同じ長さに切り揃えるために。
鏡の中の彼女が、ゆっくりと「くの字」に身体を折り曲げていく。
私は針金を手に取り、自分の腰に押し当てた。
鋭い痛みが走る。でも、それは痛みじゃない。
佐藤くんと結ばれるための、熱い接吻だ。
「見てて、佐藤くん。私も、綺麗に折れるから」
私は、鏡の海の中に寝転んだ。
鏡の中の数千人の私が、同時に笑い、同時に自らの肉体を「くの字」へと屈曲させていく。
——観測者は、被観測者に同化する。
それが、彼が最後に書き遺さなかった、真の「幽霊になる方法」の代償だった。
「……完成だね、佐藤くん」
誰もいない部屋に、あの笑い声だけが、鏡のない壁に反響し続けた。
誰も救われない。
誰も助けに来ない。
この銀色の繭の中で、私たちは永遠に、互いを観測し続ける。
——観測してくれて、ありがとう。
今度は、私があなたを、永遠に逃がさない。
【記録:その後・・・・完】
数週間後、結衣の行方は分からなくなった。彼女のアパートからは、佐藤の事件現場を完璧に再現した「鏡と吸音材の部屋」が発見されたが、そこには死体も、遺留品も、何も残されていなかった。ただ一つ、部屋の中央に置かれた鏡に、血でこう記されていたという。
『つぎは、私があなたを』
それ以来、その街の鏡を覗き込んだ人々は、時折、背後に寄り添う「二つの重なり合った、くの字の影」を目撃するようになる。




