27日目
視界が、まだ「正常」を装っている。それが忌々しい。
自分の背の高さから世界を見ている。
この部屋の景色は、昨日までとは一変していた。
第27日目。死の、前日。
今日の課題は【全方位観測による存在の固定】
僕は、この一ヶ月で買い集めた数百枚の鏡を、部屋中に貼り巡らせていた。
厚さ50mmの吸音材。その上に、銀色の鏡面が地べたを這う虫のように増殖していく。壁、天井、床。クローゼットの扉から、換気扇の縁まで。
この部屋は今、音を吸い込み、光を跳ね返す、外界から切り離された「銀色の繭」だ。
だが、その繭の中は、甘美な静寂などではない。
数日間に及ぶ絶食と、カフェインによる覚醒の強制終了、そして鉛の毒が、僕の肉体を内側からドロドロに溶かしていた。
「……ぁ、う……あ、が」
鏡を貼り付ける指先さえ、もはや自分のものとは思えない。鏡の端で指を切っても、痛みは遠く、ただ冷たい感触だけがある。
もはや括約筋を制御する力すら失い、垂れ流された排泄物が、足元の鏡を汚していく。
アンモニア臭と、廃病院から持ち帰った「綿」が胃で腐った異臭。それらが吸音材に閉じ込められ、粘り気のある空気となって僕を包む。
幽霊とは、観測され続けることで定着する不安定な概念だ。
ならば、自分が自分を永遠の時間分、観測し続ければいい。
合わせ鏡になった空間の中で、汚物にまみれた僕の姿は無限に増殖し、深淵へと連なっていく。
ピコン
足元のスマホが光る。鏡に反射したその光は、銀色の壁を幾重にも往復し、部屋全体を青白く明滅させた。
01(結衣さん)からのメッセージ。
過覚醒状態にある僕の瞳は、その暴力的な光の中に浮かぶ文字を、残酷なほど鮮明に捉えていた。一文字一文字が、網膜に直接焼き付く。
『結衣:佐藤くん、おはよ! お掃除の調子はどう? 無理して一度にやろうとしないでね。少しずつ、身の回りが綺麗になれば心も軽くなるから!』
掃除。
そうだね、結衣さん。僕は今、人生で一番
「大掃除」をしているんだ。
僕という汚れをこの世から消して、この鏡の中の銀色の虚無へと移し替えるための掃除。
僕は、彼女から以前プレゼントされたアロマキャンドルを、部屋の中央に置いた。これから僕が、針金で肉を「くの字」に縛り上げ、ぶら下がる、ちょうど真下の位置。
僕は、天井の梁に太い縄をかけた。
鏡に映る無数の僕が、一斉に同じ動作で縄を調整する。その光景は、何千人もの僕が同時に羽化を待っている儀式のようだった。
僕は鏡に囲まれた、自身の排泄物で滑る床に寝転んだ。
上を見れば天井の僕、横を見れば壁の僕。
防音材がすべての音を殺しているせいで、自分の異常な頻脈だけが、巨大な太鼓のように部屋中に鳴り響いている。
幸せだ。
鏡の中の、無数の「土色の顔」をした僕は、皆、僕と同じように焦点の合わない目で笑っていた。
明日。
僕が針金で自分をオブジェとして完成させたとき。
この銀色の繭の中で、僕は永遠の、そして唯一の「自分自身」になる。
【記録:第27日目】終了
後の現場検証において、壁一面に貼られた吸音材の隙間から、超高性能の集音マイクが発見された。被害者は外部への音漏れを完全に遮断する一方で、自らの断末魔や、骨の砕ける音、そして狂気的な笑い声を、誰にも邪魔されぬよう「記録」することに執着していた。この日の音声データには、約3時間にわたる、失禁の音と、それに対する震えるような低い笑い声が収められていた。




