1日前
その日、僕は自分が「生きている人間」の列から、音もなく滑り落ちた。
第1日目。死の、二十七日前。
今日の課題は【日常の埋葬と、存在の再定義】
放課後の誰もいないはずの講義室。忘れ物を取りに向かった扉の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。結衣さんと、彼女の取り巻きの友人たちだ。
「佐藤くん? ああ、すごく落ち着くよね。なんだか、綺麗な景色の一部みたいで」
不意に、結衣さんの声が僕の耳を打った。悪意など微塵もない、春の陽だまりのような優しい声。
「あー、分かる。いい意味で空気っていうか。そこにいて当たり前で、でも全然邪魔にならない。彼が視界にいると、なんだか部屋の湿度がちょうどよくなる気がするんだよね。不思議だよね」
クスクス、という湿った、けれど楽しげな笑い声。
それは、路傍の美しい花を愛でるような、あるいは部屋に置かれた便利なインテリアを褒めるような、絶対的な「境界線」に基づいた慈愛だった。
僕は扉に手をかけたまま、氷のように固まった。
景色。湿った、ノイズ。
その温かな言葉が、僕という人間を内側から腐らせる劇薬になった。
彼女にとって、僕は「対等な人間」ですらなかったのだ。僕が必死に選んだ言葉も、貸してあげたノートも、彼女にとっては「心地よい背景」のテクスチャの一部でしかなかった。
「……そうか。僕は、君の『景色』だったんだね」
喉の奥が熱くなる。
彼女に選ばれる「主人公」にはなれない。けれど、ただの「背景」として消えるのは、あまりに癪だった。
なら、なってあげよう。
君が一生、網膜を逸らすことができない、この世で最も醜悪で、最も美しい「絶景」に。
暗い部屋に帰り、僕は吐き気と悦楽が混じり合う中で、深夜の検索エンジンに指を走らせた。
【死体 芸術 忘れられない 方法】
【人間を 永遠に 呪う 愛】
辿り着いたのは、澱んだ水底のようなスレッド。
『幽霊になる方法——最も美しい消失の作法』
「人間は、生きている間は常に不完全である。誰かに代替され、消費され、やがて忘れられる。だが、死体として『静止』した瞬間、人は初めて唯一無二の物質へと昇華される。……ただし、その幽霊が真の永遠を得るには、『純粋な観測者の心』という代償を焼き切る必要がある」
代償。
ああ、結衣さんの、あの無垢な精神のことか。
ピコン
スマホの画面が明るくなる。結衣さんからのLINEだ。
『結衣:佐藤くん、今日のゼミお疲れ様! 佐藤くんがいると、なんだか教室が落ち着いた雰囲気になるから助かるよ。明日もよろしくね、おやすみ!』
教室が落ち着く。明日もよろしく。
結衣さん。君にとっての「心地よい景色」は、今日で終わりだ。
二十七日後、僕は君に、僕という存在の「完成」を突きつける。
君が僕を「観測」したその瞬間、君の心は僕を永遠に飼い慣らす器になる。
君が鏡を見るたび、君が幸福を感じるたび、背景の一部だったはずの僕が、君の首筋を冷たく撫で回すようにしてあげよう。
僕は真新しいノートを開いた。
1ページ目には、震える筆致でこう記した。
【死の遡行スケジュール:残り27日】
明日から、僕は少しずつ「人間」を辞めていく。
この汚れた肉体を削ぎ落とし、君の記憶に突き刺さるための、鋭利な「楔」へと作り変えていく。
「……生まれてきて、本当によかった」
死を、彼女への究極の所有欲として認識したその時、僕は人生で初めて、自分が世界を支配する王になったような悦びに打ち震えた。
夜明け前の部屋で、僕は自らの遺影となるはずの鏡を、愛撫するように優しく撫でた。
指先に触れる鏡の冷たさが、まるで未来の僕自身の肌のように、心地よく僕を誘っていた。
【記録:第1話】終了
後の家宅捜索で押収された被害者のパソコンからは、この日を境に「就職活動」や「学業」に関する履歴が一切消え、代わりに「死の定義」「特定の精神疾患における視覚的トラウマの永続性」といった、極めて偏執的な検索記録が埋め尽くしていた。
彼は、自分を殺すためではなく、結衣という一人の女性の人生を「背景」から「支配」するために、その第一歩を踏み出したのである。




