10日目
その日、僕にとって「食べる」という行為は、自らを汚す拷問へと成り下がった。
第10日目。死の、十八日前。
今日の課題は、【社会的生活の終焉と、味覚の埋葬】
咀嚼という行為そのものがおぞましく感じられた。だが、今日まではまだ、僕は「佐藤くん」としての義務を果たさなければならなかった。結衣さんに誘われた、大学近くの定食屋。それが僕にとっての「最後の晩餐」になることは、僕だけが知っていた。
「佐藤くん、ここ、ハンバーグが美味しいんだよ。昨日あんまり食べてなかったから、今日はしっかり食べてね」
結衣さんは、僕の体調を気遣って、一番人気のボリュームのあるメニューを勧めてくれた。
運ばれてきた鉄板の上で、肉汁がパチパチと音を立てている。周囲の学生たちは、その匂いに食欲をそそられ、談笑しながら喉を鳴らしている。
けれど、僕の視界は歪んでいた。
鉄板の上の肉は、加熱されただけの「死体の一部」にしか見えない。デミグラスソースの色は、どす黒い凝固した血のように見える。
「……いただきます」
僕は震える手でナイフを握った。
一口、肉を口に運ぶ。舌に乗った瞬間、肉の繊維はボロボロと崩れ、口の中の水分を奪い去っていく。飲み込もうとすると、喉が拒絶反応を起こし、食道が焼けるように熱くなる。
「どう? 美味しい?」
結衣さんが、期待に満ちた瞳で僕を見つめる。
「……うん。美味しいよ」
僕は、喉元までせり上がってくる酸っぱいものを、無理やり飲み込んだ。
ここで吐き出すわけにはいかない。まだ、僕は彼女にとっての「心配な友人」でいなければならない。
明日は、彼女を部屋へ呼び、あの「髪」を手に入れるための信頼を、ここで繋ぎ止めておかなければならないのだ。
僕は、機械のように腕を動かした。
砂を噛み、血を飲み、重たい鉛を胃に溜めていくような感覚。
皿が空になったとき、僕は自分の内臓が、生者の食べ物によって汚染されてしまったような激しい嫌悪感に襲われた。
「あ、お手洗い、行ってくる」
結衣が伝票を手に取ろうとした瞬間、僕は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
店の奥、狭くて薄暗いトイレに駆け込む。
個室に入り、鍵をかけた瞬間、僕は便器の前に崩れ落ちた。
「カッ、……ゴホッ、オェッ!!」
指を喉に突っ込む必要さえなかった。
僕の身体が、全力で「生」を排泄しようとしていた。
どろどろとした吐瀉物が、タイル張りの便器を汚していく。
先ほど食べたばかりの肉も、野菜も、全てが混ざり合い、無機質な排泄物となって流れていく。
一度、二度、三度。
胃の中が空っぽになり、黄色い胆汁しか出なくなるまで、僕は吐き続けた。
「はぁ、はぁ……っ」
冷たい床に額を押し付ける。
不思議なことに、全身は震えているのに、心はかつてないほど澄み渡っていた。
これで、僕の身体から「生者」の不純物は消えた。
僕はもう、二度とあんな「砂」を口にすることはないだろう。
口を濯ぎ、何事もなかったかのような顔で個室を出る。
洗面台の鏡に映った自分は、頬が削げ、瞳だけが爛々と輝いていた。
それは、十八日後の「完成形」に、確実に一歩近づいた者の顔だった。
店に戻ると、結衣さんは少し心配そうに僕を待っていた。
「佐藤くん、大丈夫? やっぱりまだ胃腸が弱ってるのかな」
「……大丈夫。全部出したら、逆にスッキリしたよ」
それは、今日初めての「本当の言葉」だった。
店を出ると、街は帰宅路を急ぐ人々の熱気で溢れていた。
明日になれば、僕は彼女に「熱がある」と嘘をつき、自分の部屋という檻へ彼女を誘う。
そして、今日吐き出したこの「肉」の代わりに、彼女の髪を植え付けた「聖なる肉」を、僕は手に入れることになる。
十八日後。
君が僕に与えてくれた「砂の味」を、僕は永遠に忘れないよ。
【記録:第10日目】終了
当時の定食屋の店員の証言では、被害者は食事を完食した後、長時間トイレに籠っていたという。その後、被害者が去った後の個室には、隠しきれないほどの吐瀉物の跡が残されていた。




