13日目
その日、結衣さんは僕を「殺した」。
それも、この上なく残酷な、無邪気な笑顔で。
第13日目。死の、十五日前。
今日の課題は【社会的外殻の最終廃棄と、不純物の排除】
ドアを叩く音。トントン。
開けると、そこには暴力的なまでの生命力を湛えた結衣さんが立っていた。
「佐藤くん、お疲れ様! これ……実家から届いた林檎。一個だけお裾分け」
差し出された林檎は、狂おしいほどに赤く、死にかけた僕の鼻腔に「生」の香りを叩きつけてきた。
数日間の絶食と汚水の摂取で、僕の胃壁はすでに自らを消化し始めている。林檎の放つ甘い芳香は、脳の奥深くにある野蛮な生存本能を、凄まじい力で揺さぶり起こした。
「……ありがとう。でも、今は忙しいんだ。掃除の途中だから」
「ふふ、頑張ってるんだね。でも、あんまり根を詰めないで。佐藤くんは、今のままでも十分『いい景色』なんだから」
いい景色。
その瞬間、僕の中で再びガラスが粉々に砕けるような音がした。
彼女が慈しんでいるのは、僕という人格ではない。
自分を癒し、自分を引き立てるための、都合のいい「背景」としての僕だ。彼女の無邪気な善意は、僕を一生、この退屈な日常の檻に閉じ込めておくための、透明な防腐剤だった。
「……そうだね。景色だね。僕も、そう思うよ」
彼女が去ったあと、僕は殺風景な部屋の真ん中に、ポツンとその林檎を置いた。
猛烈な飢餓が僕を襲う。喉の奥が震え、唾液が溢れる。
あのみずみずしい果肉を噛み砕き、甘い蜜で胃を満たしたい。
手を伸ばせば、すぐそこにある。
「……だめだ。それを食べれば、僕はまた『人間』に戻ってしまう」
僕は林檎を掴んだ。指先が震える。爪を立てると、パチンと皮が弾け、芳醇な香りが爆発した。そのまま口に運び、食らいつきたいという衝動が、僕の理性を幾度も蹂躙する。
脳内では、糖分を求める細胞が悲鳴を上げている。一口。たった一口で、この地獄のような倦怠感から救われる。だが、その一口は僕を「景色(佐藤くん)」へと繋ぎ止める鎖だ。
「……ああ、ああああッ!」
僕は叫び、林檎をコンクリートの壁に向かって叩きつけた。
グシャリ、と鈍い音がして、真っ赤な果実が不恰好にひしゃげる。床に飛び散った汁と、剥き出しになった白い果肉。
僕はその汁を舐め取る代わりに、カッターナイフを手に取り、まだ「人間」の柔らかさを残した自分の指先に突き立てた。
痛み。鋭利な痛みが、甘美な誘惑を塗りつぶす。
溢れ出す赤い滴が、飛び散った林檎の汁と混ざり合い、床の上でどす黒い模様を描いた。
ピコン
スマホが震える。
『結衣:あ、言い忘れてた! あの林檎、すごく甘いから早めに食べてね。明日、佐藤くんの笑顔が見れるの、楽しみにしてるよ!』
楽しみ。
結衣さん。君が期待する「笑顔」は、十五日後に完成する。
君が僕を見つけたその時、君は自分の「善意」が、いかに効率的に僕を飢えさせ、この形へと折り曲げたのかを知るだろう。
僕は潰れた林檎の死骸を見下ろし、その傍らで自分の血をじっと見つめた。
この部屋の空気は、着実に僕の死の色に染まり始めていた。
あと、十五日。
【記録:第13日目】終了
腐敗して真っ黒に変色し、執拗に爪痕が残された一個の林檎が発見された。それは一口もかじられることなく、潰された状態で、部屋の床に放置されていた。被害者はこの日を境に、知人との接触を完全に断絶。彼は空腹という最後の人間的欲求を自傷によってねじ伏せ、「景色」から「支配」へと、その狂気を加速させたのである。




