17日目
太陽の光が、網膜を刺すように痛かった。
空腹の限界を超えた脳は、わずかな刺激さえも「攻撃」として受容する。今日という日はまだ、僕は「佐藤くん」という人間の皮を剥がしきれず、彼女の隣を歩いていた。
第17日目。死の、十一日前。
今日の課題は【供物の受領と、境界線の画定】
駅ビルの雑貨屋は、週末の買い物客の熱気と騒音で満ちていた。
過剰に摂取したカフェインのせいで、僕の神経は剥き出しの電線のようになり、他人の笑い声が鼓膜をナイフで抉るように響く。手足の先が不自然に震え、額からは脂ぎった嫌な汗が止まらない。隣を歩く結衣さんには、僕が重度の風邪か何かに罹っているように見えただろう。
「佐藤くん、見て! これ、すごく良い匂いがするよ」
結衣さんが、淡い青色のアロマキャンドルを僕の鼻先に突き出した。
その瞬間、人工的なフローラルの香りが、過敏になった鼻腔の奥に突き刺さった。吐き気がせり上がる。数日間、水とサプリメント以外何も受け付けていない胃が、その「芳香」を異物として認識し、激しく痙攣した。
「……本当だ。落ち着く、匂いだね」
僕は引き攣った笑みを浮かべ、胃液を飲み込んだ。口内には血と胆汁が混ざったような不快な味が広がっている。
本当は、死の匂いの方が、今の僕にはずっと「清潔」に感じられた。
結衣さんは「最近、佐藤くん元気ないから」と言って、そのキャンドルを僕のために買ってくれた。店員が丁寧にリボンをかける様子を、僕は冷めた目で眺めていた。そのリボンが、十一日後には、僕の頸椎を締め上げる太い針金に重なって見えた。
「これ、部屋で使ってね。よく眠れるようになるといいんだけど」
よく眠れるように。
皮肉な言葉だ。カフェインで焼き切られた僕の脳からは、「睡眠」という機能はすでに剥落している。
ありがとう、結衣さん。君が願った「安眠」のためではなく、僕の死体が放つ脂の臭いを、この香りで無理やり封じ込め、君をこの部屋の記憶に繋ぎ止めるための「接着剤」として使わせてもらうよ。
駅の改札で彼女と別れるとき、彼女の指先が僕の袖に触れた。
その瞬間の温もりが、今の僕にはひどく「汚らわしい」ものに感じられた。生者の体温、湿り気。それらすべてが、オブジェになろうとする僕の純度を濁らせる気がして、僕は逃げるように背を向けた。
帰り道、僕はコンビニに寄り、カッターナイフと強力なガムテープ、そして胃薬を買った。もう胃薬など効くはずもないのに、身体が反射的に求めた「生存の痕跡」に、僕は自分自身で吐き気を催した。
部屋に戻り、僕は暗闇の中でキャンドルを置いた。
カフェインの離脱症状か、あるいは飢餓による幻覚か。壁の隅に、巨大な「くの字」の影が、蠢いているのが見えた。
僕は、彼女がくれたキャンドルのガラス瓶を、愛撫するように撫でた。
まだ火は灯さない。
僕の肉体が朽ち、この香りと混ざり合い、逃げ場のない「呪い」として完成するその瞬間まで。
「……あと、十一日」
僕は、震える指をカッターの刃に添えた。
十一日後、君がこの扉を開けたとき、このフローラルの香りは、君の人生で最も忌まわしい「死の芳香」へと書き換えられているはずだ。
【記録:第17日目】終了
現場の遺体直下で発見されたアロマキャンドルには、被害者の指紋だけでなく、苦痛に耐えるために噛み締められたような「歯形」がガラスの縁に残されていた。彼は飢餓と薬物による錯乱状態にありながら、この「善意の供物」を、自らの死を演出するための重要な道具として保管し続けていた。




