18日目
その夜、僕は「生者」のふりをするのを辞めて、闇という名の汚濁に身を浸しに出かけた。
第18日目。死の、十日前。
今日の課題は【周波数の調整と、先行する同化】
数日間、高濃度のカフェイン錠を噛み砕き、胃液を吐き続けてきた僕の肉体は、すでに警告灯を振り切っていた。視界は常にチカチカと不規則に爆ぜ、平衡感覚は泥のように溶けている。
郊外の廃病院。カビと排泄物の臭気が立ち込める廊下を這いずりながら、僕は絶望的な「渇き」に襲われていた。
あと十日。このままでは、「くの字」を完成させる前に、僕という生物が脱水と飢えで停止してしまう。完成を前にしての死。それだけは、あってはならない。
「……何か、食べなきゃ。十日、保たせるために……」
その時、暗闇の奥に「彼」がいた。
眼球のない、窪んだ眼窩から黒い粘液を流した老人が、壁に寄り添って座っている。老人はガサガサと枯れ木のような指で、床に転がっている「それ」を指差した。
『ほれ、食え。これなら、十日は保つぞ』
老人の声は、僕の脳内に直接響いた。
懐中電灯を向けると、そこには、白く瑞々しいパンが、まるで焼きたてのように転がっていた。
湯気が立ち、香ばしい小麦の匂いが鼻腔をくすぐる。
僕は獣のような声を上げ、そのパンに食らいついた。
「ああ……うまい、うまいよ……」
むせび泣きながら、それを引き千切り、喉に押し込む。
けれど、口の中に広がる感覚は、想像とは絶望的に乖離していた。
小麦の甘みなどない。あるのは、ザラザラとした繊維の塊と、古い埃の粉っぽさ、そして舌を麻痺させるような、鼻を突くカビの苦味だ。
幻覚の膜が、一瞬だけ剥がれる。
僕が頬張っていたのはパンなどではなかった。
それは、数十年前からそこに放置され、ネズミの糞とカビ、雨漏りの汚水で黒ずんだ「布団の綿」の残骸だった。
「……っ、げほっ! ごほっ!!」
口から、湿った黒い綿が溢れ出す。
だが、老人が僕の肩に冷たい手を置き、耳元で囁く。
『吐くな。飲め。それが、お前の「愛」の重さだろう?』
僕は涙を流しながら、再びその「不潔の塊」を口に詰め込んだ。
内臓が激しく拒絶し、喉が痙攣する。だが、この汚物を腹に詰めなければ、十日後の結衣さんへの「プレゼント」は完成しないのだ。
泥水を啜り、綿を飲み込む。生存本能が「毒だ」と叫ぶ声を、僕は狂気の力でねじ伏せた。
ピコン
震える指でスマホを取り出す。
『結衣:佐藤くん……。最近、なんだか遠くにいっちゃいそうで怖いよ。明日、顔見せて。』
画面に映る僕の顔。口角には黒い綿の繊維がこびりつき、瞳はカフェインと感染症の熱で異常な光を放っている。
結衣さん。
僕は今、君が人生で一度も触れることのない「地獄」を食べている。
この汚泥が、僕の血となり、十日後に君が観測する「最高の景色」の材料になる。
「……ありがとう、おじいさん」
僕は眼のない老人に向かって微笑み、さらに深く、廃病院の闇の中へとのたうち回った。
あと、十日。
僕という人間が完全に腐り落ち、至高の標本へと変わるための、厭なカウントダウンが加速していく。
【記録:第18日目】終了
現場検証により、被害者の胃の内容物からは、現場付近の廃病院で使用されていたと思われる「石綿混じりの古い寝具の繊維」と「大量の土壌菌」が検出された。被害者は重度の幻覚症状下で、自らの肉体を維持するために非食用品を摂取していたことが判明。この行為が内臓に致命的な炎症を引き起こしたが、彼はその激痛すらも「完成へのステップ」として享受していた形跡がある。




