19日目
その日、僕は「佐藤」という人間が着るべき皮膚を、すべてゴミ袋へ放り投げた。
第19日目。死の、九日前。
今日の課題は、【外殻の廃棄と、単一化】
幽霊には、流行も、季節も、体裁も必要ない。
僕はクローゼットを乱暴に開き、中にある服をすべて床にぶちまけた。
結衣さんと映画に行った時に着たシャツ。彼女が「その色、いいじゃん」と言ったジャケット。それらはすべて、彼女という観測者に媚びるための、浅ましい「生存の記号」に過ぎなかった。
特大のゴミ袋にそれらを詰め込む。袋が膨らむたびに、僕の肩から「人間」としての重圧が剥がれ落ちていく。快感だった。
しかし、その快感は、胃の奥からこみ上げる強烈な腐敗臭によって、すぐに泥水のような不快感へと書き換えられた。
机の上には、昨夜の廃病院から持ち帰った「パン」が置いてある。
僕はそれを指で少しずつ千切り、口に運ぶ。喉を通り過ぎるたびに、埃の粉っぽさが粘膜を逆撫でし、カビの苦味が舌にこびりつく。
十日後の完成まで、この卑しい生命を繋ぎ止めるための最悪の燃料。
ピコン
スマホが震える。
『結衣:佐藤くん、お疲れ様! 今日ね、家でパンを焼いたんだ。上手くできたから、今から佐藤くんの家へ持って行ってもいいかな? 焼き立て、食べてほしいな。』
焼き立てのパン。
視界が歪む。
机の上に置かれた、パンが、彼女の言葉に反応するように、一瞬だけ黄金色のクロワッサンに見えた。
僕は震える指で、彼女への返信を打った。
『佐藤:パンなら、もうたくさんあるんだ。昨日、知り合いのおじいさんから大量に貰ったから。だから、来なくていいよ。』
送信。
嘘ではない。
僕は今、その「おじいさん」がくれた、灰色のパンを口に押し込んでいる。
咀嚼するたびに、口内が乾燥し、肺まで埃っぽくなる。胃が激しい拒絶反応を起こし、酸っぱい胃液が喉までせり上がる。
結衣さんのパンは、食べられない。
あんな温かくて、生きた人間の味がするものを食べてしまったら、僕の胃は驚いて、この「標本としての純度」を壊してしまうだろう。
僕は彼女からの「えっ、おじいさん? 誰?」という追撃のメッセージを無視し、スマホを床に転がした。
最後に残った灰色のスウェットに袖を通す。
生地の感触が、衣類ではなく、遺体を包むための「梱包材」のように思えた。
僕は、カビた繊維がこびりついた唇を舐め、満足げに微笑んだ。
服を捨て、記憶を捨て、人間関係を捨てた。
残されたのは、骨と皮と、繊維で満たされた腐った胃袋だけ。
「……あと、九日」
九日後、この鼓動が止まるとき、僕は初めて「完成」する。
君の焼いたパンよりも、ずっと長く、ずっと厭な温度で、僕は君の記憶の中に残り続けるんだ。
【記録:第19日目】終了
現場付近のゴミ集積所からは、被害者の全衣服が発見された。一方で、室内のゴミ箱からは、大量の「非食品繊維」と、それを摂取したことによると思われる血の混じった嘔吐物の痕跡が発見されている。彼は自らの社会性を廃棄する一方で、廃墟の残骸を摂取するという倒錯した行為を通じて、肉体から「人間性」を徹底的に剥奪しようとしていた。また、同日、知人女性からの訪問の申し出を「老人からパンを貰った」という不可解な理由で拒絶していた記録が残っている。




