幽霊になった日
あの日、あの部屋のドアが開いた瞬間、そこに「救い」など一つもなかったことを、居合わせた者たちは一生忘れることができない。
1. 管理人(60代・男性)の証言
「……いや、最初からおかしかったんですよ。ドアの隙間から、何とも言えない……生臭いような、薬品のような、鼻が曲がるほどの悪臭が漏れ出していてね。鍵を開けて押し入ろうとしたんですが、ドアの縁にビッシリと『汚れた綿』とガムテープが詰め込まれていて、なかなか開かなかった。
無理やりこじ開けた瞬間、中から『ドロリ』とした黒い液体と、カビた埃が雪崩のように溢れ出してきました。中を覗こうとした警官も、その瞬間に膝をついて嘔吐していましたよ。部屋全体が、まるで巨大な腐った内臓の中みたいだった……」
2. 臨場警官(30代・男性)の証言
「……踏み込んだ直後、目にした光景は正視に耐えるものではありませんでした。
鏡、鏡ですよ。壁も天井も、排泄物で汚れた床も、全部鏡。そこにライトを向けると、光が暴力的に跳ね返ってきて、どこが壁でどこが死体なのかさえ分からない。
ようやく目が慣れた時、中心に『それ』が浮いていました。針金で肉に食い込むまで縛り上げられた、人間とは思えない形の肉塊。
特に右手……指が一本残らず粉砕されて、赤黒い皮袋のようになっていて……。あれは自死の覚悟なんて綺麗なもんじゃない。ただの、救いようのない狂気です」
僕は幽霊になった……
……視界が、不自然に高い。
僕の身長は172センチだったはずだが、今は天井の隅、ちょうど換気扇のベタついたプロペラと同じ高さから、六畳一間の自分の部屋を見下ろしている。
僕がいる。
正確には、数時間前に「人間」を辞め、至高の「物体」へと昇華したばかりの僕だ。
視界が、ぐにゃりと歪む。
意識が、強烈な重力に引かれるように、昨日へ、一昨日へ、そしてこの地獄を組み立て始めた「あの日」へと引き戻されていく。
なぜ、僕はこうなったんだっけ……
天井の隅から見下ろす僕の視線が、絶望に染まった結衣さんの瞳と、鏡越しに一瞬だけ重なった。
彼女は、鏡の床を見つめ、嗚咽を漏らす。
彼女の綺麗な瞳が、鏡に映る無数の「くの字の死体」と、救えなかった自責の念で濁っていく。
その絶望こそが、僕がこの二十八日間、一滴ずつ溜めてきた最高級の蜜だ。
僕が彼女の名前を噛み締め、その振動を喉の奥に閉じ込めるために、声帯を焼き切ったあの日。
——僕を景色だと言った君に、最高の絶景を見せてあげる。
それを合図に、僕の記憶は逆流を始める。
まだ僕の心臓が動いていて、僕が自分の指を一本ずつ、彼女への愛を形にするために、恍惚とした表情で折っていた死の数時間前へ。
鉛を噛み、綿を飲み込み、掃除機のゴミを「聖体」として胃に満たした、あの無様な日々へ。
僕は、幽霊になった……
君の網膜に、鼻腔に、そして脳の最も深い場所に、この「くの字」の形を永遠に焼き付けることで。
さあ、思い出そう。
僕が、ただの「佐藤」という背景から、君の人生を支配する「呪い」へと羽化するまでの、血と汚物にまみれた二十八日間のすべてを。
【記録:幽霊になった日】終了
現場の状況:遺体は極細のワイヤーと太い針金で不自然な屈曲(通称:くの字)を保持。口腔内に特定個人(知人女性)への執着を示す刻印入り鉛板を確認。壁面の吸音材により、近隣住民は被害者の指が砕ける音も、最後に漏らしたであろう歓喜の喘ぎも、一切耳にしていない。




