第4話:影と光の逆転
王城の謁見の間は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれていた。
高い天井、豪奢な装飾、そして玉座に座る国王陛下の威厳ある眼差し。
その御前には、二組の対照的な集団がいた。
片や、救国の英雄として称えられ、凛と胸を張って立つ私、エリスと、その隣で私を支えるレオナルド殿下。
そしてもう一方は、泥と煤にまみれ、見る影もなくやつれ果てて床に膝をついているバーネット侯爵家の一行と、ギルバート様だ。
「……さて、此度の騒動、まずは状況を整理しようか」
国王陛下の重々しい声が響く。
ビクリと肩を震わせたのは、父である侯爵だった。
彼の顔色は土気色で、かつての傲慢さは微塵もない。
隣にいるカミラ夫人も、自慢の厚化粧が汗と涙でドロドロに崩れ、まるで溶けかけた蝋人形のようだ。
「バーネット侯爵。其方の娘、マリアベルが儀式にて古代の瘴気を呼び起こし、王都を壊滅の危機に陥れた。これは事実だな?」
「は、はい……! し、しかし陛下! あれは事故でして……娘も、よかれと思って……!」
「よかれと思って、毒を撒き散らす者がいるか。あわや大惨事となるところを、其方が追放したもう一人の娘、エリスが救ったのだ。皮肉なものだな」
陛下の鋭い指摘に、侯爵は言葉を詰まらせる。
彼はチラリと私の方を見た。
その目には、すがるような色が浮かんでいた。
ああ、分かる。手に取るように分かる。
彼が今、何を考えているのか。
「お、恐れながら陛下! 誤解がございます!」
侯爵が膝行して前に進み出た。
「私はエリスを追放などしておりません! これは、彼女に外の世界を見せ、修行をさせるための親心だったのです! そうだよな、エリス? お前は我がバーネット家の大事な長女だ。戻ってきてくれるだろう?」
そのあまりに厚顔無恥な言い分に、私は思わず失笑しそうになった。
勘当だと言い放ち、無一文で追い出したことを「修行」と言うとは。
人間の記憶というのは、こうも都合よく書き換えられるものなのか。
「……お父様。いいえ、バーネット侯爵。貴方様は私に『二度とその名を名乗るな』と仰いました。その言葉、もうお忘れですか?」
私が冷ややかに告げると、侯爵は脂汗を流しながら引きつった笑みを浮かべた。
「み、水くさいことを言うな! あの時は少し感情的になっていただけだ。ほら、家に戻れば、お前の部屋も用意してやる。今までのような使用人部屋ではない、ちゃんとした令嬢の部屋だ。家族水入らずでやり直そう、な?」
「まあ! エリス、あなたも意地を張らないで。私だって、あなたを厳しく躾けたのは、立派なレディにするためだったのよ。母親代わりの私の愛、分かってくれるわよね?」
カミラ夫人までもが、猫なで声を出して同調する。
今まで私を虐げ、私の母の形見さえも捨てようとした女が、「愛」などと口にするだけでおぞましい。
私は扇子を口元に当て、優雅に小首をかしげた。
「お断りします」
短く、明確な拒絶。
二人の表情が凍りつく。
「わ、私がこれほど下手に出ているのに……!」
「今さら『家族』とすり寄られても困ります。私はすでにレオナルド殿下の下で、新しい人生を歩んでおりますので」
私が視線を切ると、今度はギルバート様が立ち上がった。
彼は必死に服の汚れを払い、髪を整えようとしているが、その姿は滑稽なだけだった。
彼は熱っぽい瞳で私を見つめ、一歩近づいてきた。
「エリス……! 僕が悪かった。君の真価を見抜けなかった僕を罵ってくれ!」
まるで悲劇のヒーロー気取りだ。
彼は自分がまだ、私にとって特別な存在だと思っているのだろうか。
「でも、聞いてくれ。マリアベルとの婚約は、間違いだったんだ。彼女の光魔法に目がくらんでいただけだ。君が去ってから、僕は君のことばかり考えていた。君の淹れてくれる紅茶、君が整えてくれる心地よい部屋の空気……君がいなくなって初めて、君がどれほど僕を支えてくれていたか気づいたんだ!」
ギルバート様は両手を広げ、ドラマチックに叫んだ。
「やはり、僕が愛しているのは君だ、エリス! マリアベルとは別れる! だから、僕の胸に戻っておいで。二人で伯爵家を盛り立てていこう。君となら、最高の家庭が築けるはずだ!」
会場の騎士たちが、呆れたようにため息をつく気配がした。
ここまで自分本位な理屈を並べられるのは、ある種の才能かもしれない。
私は彼を真っ直ぐに見据え、淡々と言葉を紡ぐ。
「ギルバート様。貴方は私を『陰気で不吉だ』と仰いましたね。私の魔法を『ドブ掃除のようだ』と笑いましたね」
「そ、それは……言葉のあやだ!」
「私は忘れません。貴方が私に向けた軽蔑の眼差しも、マリアベルと腕を組んで私を嘲笑ったあの日のことも。……貴方にとって、私は都合のいい道具でしかなかった。部屋を綺麗にし、快適な環境を作るだけの」
「ち、違う! 愛していたんだ!」
「愛?」
私は冷たく微笑んだ。
「貴方が愛していたのは、私が提供する『快適さ』だけです。私自身を見てくださったことは一度もありませんでした。……レオナルド様とは違います」
私は隣に立つレオナルドを見上げた。
彼は力強く頷き、私の腰に手を回して引き寄せた。
「その通りだ。ギルバート、そなたにはエリスの爪の垢ほども相応しくない。彼女は私のパートナーであり、誰よりも尊い女性だ。薄汚れた欲望で彼女に触れようとするな」
レオナルドの覇気に押され、ギルバート様はよろめいて後ずさる。
その顔には絶望と、逃した魚の大きさへの悔恨が滲んでいた。
彼が求めていた「理想の妻」は、まさに今の私だったはずだ。
美しく、有能で、家を繁栄させる力を持つ女性。
それを自らの手で捨て、偽物の光に目がくらんだ愚か者。
「そ、そんな……嘘だ……」
彼が膝から崩れ落ちた時、それまで黙り込んでいたマリアベルが、金切り声を上げて暴れ出した。
「ふざけないでよ! なによ、なによみんなして!」
彼女はボロボロのドレスを引きちぎらんばかりの勢いで、私を指差した。
その目は血走り、完全に理性を失っていた。
かつての「光の愛し子」と呼ばれた可憐な面影はどこにもない。
ただの嫉妬に狂った醜い子供だ。
「どうしてあんたなのよ! あんたは『影』でしょ!? 日陰者の、地味で陰気な侍女同然の女じゃない! どうして光属性の私が泥まみれになって、影のあんたが王子様に選ばれてるのよ! 間違ってるわ!」
彼女は地団駄を踏み、喚き散らす。
「まさか……あの侍女が! あの侍女が私より上なんて、ありえないのよおおお!」
その言葉を聞いた瞬間、私は静かに彼女の前へと歩み寄った。
兵士たちが止めようとするのを手で制し、マリアベルの目の前まで近づく。
彼女は私の気迫に圧され、ビクリと動きを止めた。
私は彼女を見下ろし、かつて屋敷で彼女に向けられていた言葉を、そのままの意味で返すようにつぶやいた。
「お可哀想なマリアベル」
「な……っ」
「貴方は『光』であることに固執しすぎました。光は、影がなければ存在できない。そして、影もまた、光を生かすための土台となるもの」
私は指先に小さな影の魔力を灯した。
それは黒い炎のように揺らめき、しかし決して周囲を焼き尽くすことはない。
静かで、優しい闇だ。
「貴方は私の影を『汚れ』だと言いましたね。でも、見てください」
私はその影を天井へと放った。
黒い魔力は霧散し、シャンデリアの光を柔らかく反射させ、部屋全体をより一層輝かせてみせた。
影があるからこそ、光は輪郭を持ち、美しく際立つのだ。
私は指定されたあの言葉を、万感の思いを込めて告げた。
「“影”でも光を差すことはできるんですよ。」
その言葉は、マリアベルの心臓を貫く決定打となったようだ。
彼女は口をパクパクとさせ、何も言い返すことができない。
自分の「光」が、私の「影」によって完全に凌駕され、しかもその影が、光以上の輝きを生み出せることを証明されてしまったのだから。
「……っ、う、うあぁぁぁ……」
彼女はその場に泣き崩れた。
もはや、彼女に同情する者は誰もいなかった。
ここで、レオナルドが一枚の書類を取り出し、冷徹な声で読み上げ始めた。
「さて、感情の話はここまでだ。ここからは法と罪の話をしよう。バーネット侯爵家について、我が騎士団が調査を行った」
レオナルドの言葉に、侯爵がハッとして顔を上げる。
「ちょ、調査だと……?」
「ああ。エリスを追放して以降、バーネット領の管理はずさんを極めている。治水工事の不備、衛生環境の悪化、そして何より……」
レオナルドは私を見て、優しく微笑んだ後、厳しい視線を侯爵に戻した。
「エリスが行っていた『影の結界』による防衛機能を理解せず、彼女を追放したことで、屋敷の地下に封じられていた瘴気の封印を弱め、今回の王都危機を招いた。これは明白な人災であり、国益を損なう重罪だ」
「そ、そんな……私は知らなかったのです! 魔法のことは分からなくて……!」
「無知は罪だ。特に、人の上に立つ者にとってはな」
レオナルドは書類を陛下に差し出した。
陛下はそれに目を通し、深く頷いた。
「判決を言い渡す」
陛下の声が広間に轟く。
「バーネット家は、本日をもって爵位を剥奪。全財産を没収し、被害を受けた王都の修繕費に充てるものとする。今後、一族は平民として、北の鉱山にて労働に従事し、罪を償うがよい」
「ひ、ひいいいっ! 鉱山!? あんな過酷な場所に!?」
「嫌よ! 私はドレスが着たいの! パーティーに行きたいのよおお!」
カミラとマリアベルが絶叫する。
「次に、ギルバート・レインズ」
「は、はいっ!」
「其方は婚約者であるエリスを不当に貶め、バーネット家の暴走を助長した。よってレインズ家を廃嫡とし、国外追放を命じる。二度とこの国の土を踏むことは許さぬ」
「そ、そんな……嘘だ……僕は伯爵に……」
ギルバート様は白目を剥いて失神した。
衛兵たちが彼らを乱暴に立たせ、引きずっていく。
「待ってくれ! エリス! エリス、助けてくれ! 父親だろう!?」
「お姉様! ごめんなさい! 謝るから、掃除でもなんでもするからぁぁ!」
彼らの悲痛な叫び声が響き渡る。
かつて私が、冷たい床の上で助けを求めていた時、彼らは見向きもしなかった。
今、その報いが彼ら自身に返ってきただけのこと。
彼らが扉の向こうへ消えようとするその瞬間、私は一度だけ彼らを呼び止めた。
衛兵が足を止める。
侯爵たちは、最後の希望にすがるような目で私を見た。
慈悲を与えてくれるのではないか、と。
私は彼らに近づき、完璧なカーテシーを披露した。
そして、最高に優雅な笑顔で言った。
「ごきげんよう。どうぞ、お元気で」
「え……?」
「あなたたちの不幸に関わっている時間は、私にはありませんので。――さようなら、他人の皆様」
それだけ言うと、私はくるりと背を向けた。
背後から絶望の悲鳴が聞こえたが、それはすぐに扉が閉まる音と共に遮断された。
胸の中にあった小さな滓のようなものが、完全に消え去ったのを感じた。
「終わったな」
レオナルドが私の肩に手を置いた。
「はい。……すべて、終わりました」
「これからは、君自身の幸せのために生きるといい。私が全力でそれを支えよう」
「ふふ、頼りにしていますわ、私の王子様」
私たちは顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
窓の外からは、祝祭の再開を告げる鐘の音が聞こえてくる。
王都の空は、どこまでも澄み渡るような青色だった。
***
それから数ヶ月後。
かつてのバーネット侯爵邸は国に接収され、今は孤児院として改装されていた。
私が施し直した「影の結界」のおかげで、建物は清潔に保たれ、子供たちの笑い声が溢れる明るい場所となっている。
私は、レオナルドと共に王都のテラスで風に当たっていた。
私の左手の薬指には、彼から贈られたサファイアの指輪が輝いている。
正式に婚約が整い、来月には結婚式を挙げる予定だ。
「影の聖女」として国民からの人気も高く、忙しくも充実した毎日を送っている。
「エリス、何を考えているんだ?」
レオナルドが背後から私を抱きしめた。
彼の体温と匂いに、心が安らぐ。
「いいえ……ただ、幸せだなと思って」
「そうか。君が幸せなら、私も幸せだ」
彼は私の髪に口づけを落とした。
ふと、足元を見る。
夕日に照らされた私たちの影が、長く伸びて一つに重なっていた。
かつて私は、影の中にしか居場所がなかった。
けれど今は知っている。
影があるからこそ、光の暖かさを知ることができるのだと。
そして、誰かの影を支えることこそが、最強の力なのだと。
「愛しています、レオナルド」
「私もだ、エリス。生涯、君を守り抜こう」
私は彼の方を向き、そっと口づけを交わした。
過去の痛みも、苦しみも、すべては今の幸せへと続く道だったのかもしれない。
そう思えるほどに、今の私は満たされていた。
影魔法使いのエリス。
彼女の物語は、ここから本当の意味で始まるのだ。
光と影、その両方を愛する、一人の女性として。




