第3話:救世主の凱旋
王都は、年に一度の「太陽の祝祭」の真っ只中にあった。
街中は色とりどりの旗で飾られ、広場には露店が並び、人々は太陽の恵みに感謝を捧げてワインを酌み交わしている。
本来ならば、国中が幸福感に包まれるはずの一日。
しかし、今年の祝祭には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
「ねえ、聞いた? バーネット侯爵家の噂」
「ああ、あの『幽霊屋敷』のことだろう? 夜な夜な不気味な音がして、カビと悪臭が酷いって話だ」
「あそこの令嬢、『光の愛し子』じゃなかったか? 浄化できないのかね」
「それが、やればやるほど悪化するって噂だぜ」
広場の片隅で囁かれる噂話。
それは、豪華な馬車から降り立った当人たちの耳にも届いていた。
「……お聞きになりまして? どいつもこいつも、言いたい放題言って」
カミラ夫人が、扇子を持つ手に力を込めてギリギリと震わせている。
その顔には厚い化粧が施されているが、目の下のクマと肌荒れは隠しきれていない。
隣を歩くバーネット侯爵もまた、心労で急激に老け込んだ様子で、背中を丸めていた。
「母様、気にしないで。今日、私が皆様の前で奇跡をお見せすれば、あんな噂すぐに消えるわ」
マリアベルが強気な声で言った。
今日の彼女は、これ以上ないほどに着飾っていた。
純白のドレスには本物のダイヤモンドが縫い付けられ、歩くたびに眩い光を放つ。
しかし、その表情には焦りの色が滲んでいた。
ギルバートとの婚約発表以来、彼女の評判は下がる一方だったからだ。
屋敷の崩壊を止められず、使用人にも逃げられ、社交界では「見掛け倒しの聖女」と陰口を叩かれている。
今日の祝祭で行われる奉納儀式は、彼女にとって名誉挽回の最後のチャンスだった。
「頼むよ、マリアベル。お前の力で、我が家の威信を取り戻してくれ」
「ええ、任せてお父様。ギルバート様も、見ていてくださいね!」
マリアベルは隣のギルバートに媚びるような視線を送る。
しかし、ギルバートの反応は鈍い。
彼は心ここにあらずといった様子で、虚ろな目をしていた。
エリスを追い出してからというもの、彼の生活もまた荒んでいた。
快適だったはずの侯爵邸での時間は苦痛に変わり、マリアベルの癇癪と浪費に付き合わされ、心身ともに疲弊していたのだ。
「……ああ、期待しているよ」
生返事をするギルバートに、マリアベルは不満げに頬を膨らませる。
(見ていなさい。私が最高の魔法を見せれば、また昔みたいに私に夢中になるはずよ)
正午の鐘が鳴り響き、国王陛下がバルコニーに姿を現した。
広場を埋め尽くす民衆が歓声を上げる。
儀式の始まりだ。
マリアベルが祭壇の中央へと進み出る。
彼女は杖を高く掲げ、詠唱を始めた。
「あまねく世界を照らす聖なる光よ、我に宿りて祝福を与え給え――『セイクリッド・シャイン』!」
彼女の杖から、目もくらむような閃光が放たれた。
それは確かに美しく、派手な演出だった。
民衆から「おおっ」とどよめきが上がる。
マリアベルは勝ち誇った笑みを浮かべた。
成功だ。これでまた、私が主役になれる。
しかし、その時だった。
広場の地面が、奇妙な音を立てて軋み始めたのは。
ズズズ……ゴゴゴゴゴ……
「な、なんだ!?」
「地震か!?」
歓声が悲鳴に変わる。
マリアベルの放った光魔法が、地面に描かれていた古代の封印陣と干渉し、予期せぬ化学反応を引き起こしたのだ。
光が強すぎたせいで、影が濃くなりすぎた――いや、地下深くに眠っていた「影」のさらに奥にある「闇」を刺激してしまったのだ。
バキィッ!
耳をつんざく音とともに、広場の中央、マリアベルの足元の石畳が砕け散った。
そこから噴き出したのは、ドス黒い、コールタールのような粘着質の霧。
古代の瘴気だ。
かつてこの国を滅亡の危機に陥れたとされる、伝説の災厄。
「きゃあああああっ!」
マリアベルが悲鳴を上げて尻餅をつく。
瘴気は生き物のように蠢き、彼女の純白のドレスにまとわりついた。
ダイヤモンドが黒く染まり、布地が焼けるような音を立てて溶けていく。
「い、嫌っ! 来ないで! 消えなさいよ!」
彼女は錯乱して杖を振り回し、さらに光魔法を連発した。
だが、それが最悪の一手だった。
光魔法は瘴気を浄化するどころか、エネルギー源となってさらに活性化させてしまったのだ。
瘴気は爆発的に膨張し、広場の人々を飲み込もうと波のように押し寄せた。
「逃げろ! 触れると腐るぞ!」
「聖女様が暴走した!」
「誰か助けてくれ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
カミラ夫人は腰を抜かし、侯爵は顔面蒼白で震えている。
ギルバートは剣を抜こうとしたが、圧倒的な恐怖の前に体が動かない。
自分たちが頼りにしていた「光」が、災厄を招いたという事実に、彼らは絶望した。
「兵士! 住民を避難させろ! 魔導部隊、結界を!」
騎士団長が叫ぶが、瘴気の広がるスピードは速すぎる。
王都の半分が飲み込まれるのも時間の問題かと思われた。
その時――。
ヒュオオオオオ……!
上空から、鋭い風切り音が聞こえた。
誰もが空を見上げる。
巨大な飛竜の編隊が、太陽を背にして急降下してくるところだった。
その先頭を行く黒い飛竜から、二つの人影が飛び降りる。
スタッ。
軽やかな着地音とともに、瘴気渦巻く広場の中心に降り立ったのは、一人の騎士と、一人の魔導師だった。
騎士は、辺境の英雄として名高いレオナルド第二王子。
そして、その隣に立つ女性に、誰もが目を奪われた。
漆黒のイブニングドレスを身に纏い、夜空のような深い藍色の髪をなびかせた美女。
その髪には、最高級のサファイアが輝いている。
背筋は凛と伸び、その瞳には慈愛と、絶対的な自信が宿っていた。
かつて、侯爵家の隅で縮こまっていた「影の侍女」の面影はどこにもない。
そこにいるのは、威風堂々たる「影の支配者」だった。
「レ、レオナルド殿下……それに、あの女性は……?」
民衆がざわめく中、レオナルドが力強く叫んだ。
「王都の民よ、恐れるな! 我らが北の守護神、エリスが来たからには、もはや災厄になど手出しはさせん!」
エリスが一歩前へ出る。
足元まで迫っていた瘴気の波が、彼女の気配を感じたかのようにピタリと止まった。
「……騒々しいですね。少し、静かにしていただきましょうか」
鈴が鳴るような、それでいて芯の通った声。
彼女は優雅な仕草で右手をかざした。
「『万象を飲み込む静寂の海よ、我が手に集いて牙を剥け』」
詠唱とともに、彼女の影が広がった。
それは単なる影ではない。
次元の裂け目そのものだった。
光さえも吸い込む絶対の黒が、広場全体を覆い尽くす。
「『シャドウ・ヴォーテックス(影の渦)』」
彼女が指を鳴らすと、広がった影が巨大な渦となり、暴れ狂う瘴気を猛烈な勢いで吸い込み始めた。
マリアベルの光魔法では活性化するだけだった瘴気が、エリスの影の前では無力な子供のように飲み込まれていく。
物理法則を無視した、圧倒的な空間制御。
毒気も、破壊のエネルギーも、すべてが彼女の掌の上で処理されていく。
「な、なんなのよこれ……!」
へたり込んだままのマリアベルが、呆然と口を開けていた。
自分の魔法がいとも簡単に凌駕され、しかもそれが、かつて自分が蔑んでいた義姉の力によるものだと、信じたくないのだろう。
「嘘よ……あんなの、掃除係の魔法じゃない……」
数分もしないうちに、広場を埋め尽くしていた瘴気は完全に消滅した。
後に残ったのは、綺麗に浄化された石畳と、静寂だけ。
エリスがふっと息を吐き、手を下ろすと、遮られていた太陽の光が再び広場に降り注いだ。
まるで、彼女が影を使って太陽を連れ戻したかのようだった。
「……終わりました、殿下」
「見事だ、エリス」
レオナルドが彼女に駆け寄り、その肩を抱く。
二人の姿は、絵画のように美しかった。
静寂が破られ、割れんばかりの歓声が爆発した。
「うおおおおお!」
「助かった! 俺たちは助かったんだ!」
「あの女性は何者だ!?」
「救世主様だ! 影の聖女様だ!」
「エリス」を称える声が、王都中に響き渡る。
人々は涙を流して彼女を拝み、感謝の言葉を叫んだ。
その歓声の渦の中で、バーネット家の人々は取り残されていた。
彼らは亡霊を見るような目で、壇上のエリスを見つめている。
「……エリス? まさか、本当にあのエリスなのか?」
ギルバートが、震える足で数歩近づこうとした。
彼の目は、かつてない熱量でエリスを捉えていた。
ボロボロの服を着ていた頃とは比べ物にならない。
洗練され、自信に満ち、強大な力を持った彼女。
その美しさは、隣で泥にまみれて泣き喚いているマリアベルとは雲泥の差だった。
(ああ、なんてことだ。私は……私はとんでもない間違いを犯したのではないか?)
後悔という名の毒が、ギルバートの胸に広がっていく。
彼は無意識に手を伸ばした。
「エリス……!」
彼の声に気づいたのか、エリスがふと視線を向けた。
しかし、その瞳には何の感情も映っていなかった。
かつて彼に向けられていた親愛の情も、恥じらいも、何もない。
ただ、道端の石を見るような、冷徹な無関心。
エリスはすぐに視線を外し、レオナルドの方へ向き直って微笑んだ。
「行きましょう、レオナルド。陛下への報告があります」
「ああ。王城へ向かおう」
二人は歓呼の声に送られながら、颯爽と歩き出した。
ギルバートは伸ばした手を下ろすこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
「待って! 待ちなさいよ!」
金切り声を上げたのは、マリアベルだった。
彼女は泥だらけのドレスを引きずり、髪を振り乱して立ち上がった。
プライドを粉々に砕かれた屈辱と、嫉妬。
それらが彼女を狂気へと駆り立てていた。
「どうしてあんたなのよ! あんたはただの影でしょ!? 私の引き立て役で、掃除係のくせに! どうして光の私が失敗して、あんたが褒められるのよ! おかしいわよ!」
彼女の叫び声は、周囲の歓声にかき消されそうになるが、近くにいた人々にははっきりと聞こえていた。
民衆の視線が、冷ややかなものへと変わっていく。
「あれが噂の偽聖女か」「自分の失敗を棚に上げて」「見苦しいな」という声が漏れる。
カミラ夫人が慌てて娘の口を塞ごうとするが、マリアベルは暴れる。
「離してママ! あいつが何かズルをしたに決まってるわ! 私の光魔法が一番なのよ!」
「おやめなさいマリアベル! みっともない!」
侯爵は顔を覆ってうずくまった。
終わった。すべてが終わった。
エリスの実力を目の当たりにし、自分たちが捨てたものが「ただの娘」ではなく、「家の繁栄そのもの」だったことを、嫌というほど理解させられたのだ。
しかも、衆人環視の中で、自分たちの娘が災厄を招き、捨てた娘がそれを救った。
この事実は、瞬く間に国中に広まるだろう。
バーネット侯爵家の失墜は、もはや決定的なものとなった。
王城へと続く赤絨毯の上を、エリスは一度も振り返ることなく進んでいく。
彼女の背中は、過去の呪縛から完全に解き放たれ、希望に満ちていた。
その姿を見送りながら、ギルバートは膝から崩れ落ちた。
彼の心に残ったのは、逃した魚の大きさへの絶望と、決して取り戻せない過去への悔恨だけだった。
「……エリス……」
彼の虚しい呟きは、祝祭の喧騒の中に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。
王城の大広間に到着すると、国王陛下が玉座から立ち上がり、両手を広げて彼らを迎えた。
「よくぞ戻った、レオナルド。そして、そなたが噂の『影の魔導師』エリスか」
「お初にお目にかかります、陛下。エリス・バーネット……いえ、今はただのエリスと申します」
エリスは優雅にカーテシーを行った。
その所作は、王族の前であっても少しも引けを取らない、完璧で気品に満ちたものだった。
陛下は満足そうに頷き、そしてレオナルドに視線を送る。
「今回の功績、誠に見事であった。追って褒賞を取らせるが……その前に、一つ整理せねばならぬことがあるな」
陛下の視線の先には、遅れて入室を許されたバーネット侯爵一家とギルバートの姿があった。
彼らは兵士に囲まれ、青ざめた顔で震えている。
エリスは静かに彼らを見据えた。
いよいよ、最後の決着をつける時が来たのだ。




