第1話:影の追放と崩壊の予兆
冷たい石造りの廊下に膝をつき、私は今日も床を磨いていた。
古びた雑巾が擦れる音だけが、静寂に包まれた早朝の侯爵邸に響く。
指先は冷たい水で悴み、赤く腫れあがっているけれど、手を止めることは許されない。
この広大なバーネット侯爵家の屋敷において、私の居場所は「影」の中にしかなかったからだ。
「……きれいになあれ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、私は呪文のような言葉を紡ぐ。
それは単なる願いではない。私の指先から滲み出る、黒く、それでいて透き通った霧のような魔力――『影魔法』を、床の隙間に染み込ませていく作業だ。
目に見えない埃、建材を蝕もうとする小さな虫、そして澱んだ空気。それらを私の影が捕食し、屋敷を内側から浄化していく。
私がこうして魔法を使わなければ、築百年を超えるこの屋敷は、たちまちカビと害虫に侵されてしまうだろう。
けれど、その事実を知る者は誰もいない。
父である侯爵も、義母のカミラも、そして義妹のマリアベルも。
彼らは私がただ、使用人以下の雑用係として這いつくばっているとしか思っていないのだ。
「あら、まだそんなところにいたの? 埃くさいわね」
頭上から降ってきたのは、甲高く、神経を逆なでするような声だった。
顔を上げずとも分かる。義母のカミラだ。
カツカツとヒールの音を響かせ、彼女は私の手元を汚いものを見るような目で見下ろしていた。
「申し訳ございません、お義母様。すぐに終わらせます」
「お義母様と呼ばないでちょうだいと言っているでしょう。虫唾が走るわ。それに、今日はマリアベルの大切な誕生日パーティーなのよ? 陰気なあなたがうろついているだけで、屋敷の空気が濁る気がするわ」
彼女は扇子で口元を覆いながら、わざとらしく顔をしかめた。
バーネット侯爵家の正妻であった私の母が亡くなり、後妻としてこの家に入ってきたカミラにとって、前妻の娘である私は目の上のたんこぶでしかない。
しかも、私が持つ魔力が、貴族の間で不吉とされる「影」属性であったことが、彼女の虐待を正当化させていた。
「パーティーが始まったら、あなたは給仕として働きなさい。人手が足りないの。ああ、もちろん、そのボロボロの服の上にエプロンをしてね。お客様の前に出るのだから、顔は極力伏せているのよ。バーネット家の恥さらしだもの」
「……はい、奥様」
「ふん、返事だけは一人前ね。さっさとそこを退きなさい」
カミラは私の指を踏みつけるようにして通り過ぎていった。
じんわりとした痛みが走るが、私は声を上げない。
こんなことは日常茶飯事だ。痛みに声を上げれば、さらに酷い仕打ちが待っていることを、幼い頃からの経験で嫌というほど知っていた。
私はゆっくりと立ち上がり、踏まれた指をさすりながら、去っていく義母の背中を見つめる。
豪華なドレス、きらびやかな宝石。それらはすべて、侯爵家の財産であり、本来ならば正当な後継者である私が管理すべきものだったはずだ。
けれど、今の私には何もない。
与えられたのは、屋敷の裏方としての過酷な労働と、屋敷中の穢れを一身に引き受ける「影」としての役割だけ。
(でも、それも今日で終わるかもしれない……)
胸の奥で、微かな予感が渦巻いていた。
今日は義妹マリアベルの十九歳の誕生日。
そして、私の婚約者であるギルバート様が、正式に祝いに駆けつける日でもある。
ギルバート・レインズ伯爵令息。
金色の髪に、碧の瞳を持つ彼は、社交界でも評判の好青年だ。
亡き母同士の約束で結ばれた私たちは、幼い頃から許嫁として育ってきた。
彼だけは、私の味方でいてくれると信じていた。
かつて、庭の隅で泣いていた私に、「エリスの瞳は、夜空みたいで綺麗だよ」と言ってくれた優しい少年。
彼との結婚だけが、この地獄のような日々から抜け出す唯一の希望だった。
しかし、最近のギルバート様はどこか余所余しい。
私と目を合わせようとせず、屋敷を訪れても、すぐにマリアベルと談笑している姿を見かけるようになった。
マリアベルは、私と違って愛らしいピンクブロンドの髪を持ち、希少で華やかな「光魔法」の使い手だ。
誰もが彼女を愛し、蝶よ花よと慈しむ。
陰気な影魔法しか使えない私とは、正反対の存在。
(嫌な予感がする……)
私は胸騒ぎを抑えるように、再び床に手を触れた。
私の影が、さざ波のように広がり、廊下の隅に潜んでいた小さな瘴気を飲み込んでいく。
せめて、この屋敷が清浄であるように。
それが、亡き母が愛したこの場所を守る、私なりの矜持だったから。
***
夕刻、屋敷の大広間は、これ以上ないほどの華やかさに包まれていた。
シャンデリアの光がクリスタルのグラスに反射し、着飾った貴族たちの笑い声が音楽のように響き渡る。
料理の芳醇な香り、香水の甘い匂い。
それらが混じり合う空間の隅で、私は目立たぬように給仕をしていた。
地味な灰色のワンピースに、白いエプロン。
髪は一つに束ね、化粧っ気のない顔を伏せている。
誰も私が、この家の長女であるエリス・バーネットだとは気づかないだろう。
あるいは気づいていても、あえて無視しているのかもしれない。
「影の侍女」――それが、社交界での私の通り名だった。
「まあ、マリアベル様! 今日のドレスもとっても素敵ですわ!」
「さすがは『光の愛し子』、存在そのものが輝いていらっしゃる!」
広間の中心には、主役であるマリアベルがいた。
純白に金の刺繍が施されたドレスは、彼女の可憐さを際立たせている。
彼女の周りには常に人が集まり、賛辞の言葉が絶えない。
「皆様、ありがとうございます。こんなにたくさんの方にお祝いしていただけて、私、とっても幸せです!」
マリアベルが鈴を転がすような声で笑う。
その時、彼女の手元からふわりと光の粒子が舞い上がり、周囲を幻想的に照らした。
「光魔法」の演出だ。
実用性は皆無だが、人々の目を奪うには十分な輝きを持っている。
会場からは感嘆の声が上がった。
私はトレイを持つ手に力を込めた。
私の「影魔法」は、あんなふうに人を喜ばせることはできない。
地味で、暗く、忌み嫌われる力。
けれど、この屋敷の土台を支え、腐食を防ぎ、皆様が快適に過ごせる空気を維持しているのは、私の魔法なのに。
誰もそのことに気づきはしない。
その時、会場の入り口がざわめいた。
長身の影が現れる。
ギルバート様だ。
整った顔立ちに、仕立ての良い燕尾服。手には大きな深紅の薔薇の花束を抱えている。
私の心臓が早鐘を打った。
彼がこちらを見るかもしれない。
私に、一言だけでも声をかけてくれるかもしれない。
しかし、彼の視線は私を通り越し、真っ直ぐにマリアベルへと注がれていた。
その瞳に宿る熱っぽさは、かつて私に向けられた優しさとは明らかに質の違うものだった。
「マリアベル、誕生日おめでとう。君は今夜、誰よりも美しい」
「ギルバート様……! 来てくださったのね!」
マリアベルが駆け寄り、ギルバート様の腕に絡みつく。
親密すぎる距離感に、周囲の貴族たちが扇子で口元を隠しながらささやき合うのが見えた。
私は息ができなくなるような感覚に襲われながらも、必死で表情を取り繕い、空になったグラスを回収し続けた。
見たくない。聞きたくない。
けれど、現実は無慈悲に進行していく。
音楽が止み、父である侯爵が壇上に上がった。
咳払いを一つして、厳かな声で宣言する。
「皆、今宵は娘マリアベルのために集まってくれて感謝する。実は、このめでたい席で、もう一つ重大な発表があるのだ」
会場が静まり返る。
嫌な汗が背中を伝う。
父の隣には、満足げな笑みを浮かべたカミラと、頬を染めたマリアベル、そして決意に満ちた表情のギルバート様が並んでいた。
「我がバーネット家と、レインズ伯爵家との婚約についてだ。……ギルバート君、頼む」
促されたギルバート様が一歩前へ出る。
彼は一度だけ、会場の隅にいる私へと視線を向けた。
その瞳には、侮蔑と、憐れみと、そして確固たる拒絶の色があった。
「私、ギルバート・レインズは、エリス・バーネット嬢との婚約を破棄し――ここにいるマリアベル・バーネット嬢と、新たに婚約を結ぶことを宣言します!」
会場がどよめきに包まれる。
予想はしていた。覚悟もしていたつもりだった。
それでも、実際に言葉にされると、鋭利な刃物で胸を抉られたような痛みが走った。
手からトレイが滑り落ちそうになるのを、必死で堪える。
「ギルバート様……どうして……」
思わず漏れた私の呟きは、誰にも届かないはずだった。
しかし、静まり返った会場で、ギルバート様は私の方を指差して声を張り上げた。
「エリス! 悪いが、君との結婚は考えられない! 君のその陰気な性格、不吉な影魔法……。君と一緒にいると、私の運気まで吸い取られるようだ。それに比べてマリアベルは太陽だ。彼女の光こそが、私にふさわしい!」
「そんな……私は、ずっとあなたを……」
「黙りなさい、エリス!」
カミラの金切り声が響いた。
彼女は勝ち誇った顔で、私を睨みつける。
「聞いたでしょう? ギルバート様は、真実の愛を見つけられたのよ。陰気で、掃除くらいしか取り柄のない女より、光の愛し子であるマリアベルが選ばれるのは当然の理だわ!」
「お姉様、ごめんなさいね」
マリアベルが、ギルバート様の腕にしがみついたまま、小首をかしげて私を見た。
その瞳は笑っていた。純粋な悪意が、キラキラとした光の中に潜んでいる。
「でも、愛は止められないの。お姉様はずっと暗いお部屋にいたから分からないでしょうけれど、愛って光のように暖かいものなのよ。陰気なお姉様には、ギルバート様のような素敵な方はもったいないわ」
会場のあちこちから、失笑が漏れる。
「影の侍女」への嘲笑。
「身の程知らず」「当然の結果だ」という囁き。
私は唇を噛み締め、俯くしかなかった。
反論したところで、誰が信じてくれるだろう。
私がどれだけこの家のために尽くしてきたか。
影魔法を使って、屋敷を守ってきたか。
そんな真実は、華やかな光の前では何の意味も持たなかった。
父が冷淡な声で告げる。
「エリス、お前には失望した。婚約者に愛想を尽かされるとは、バーネット家の恥だ。……本日をもって、お前をこの屋敷から追放する」
「……え?」
「聞こえなかったのか? 勘当だと言っているのだ。二度とバーネットの名を名乗るな。荷物をまとめてすぐに出て行け」
追放。勘当。
実の父から放たれた言葉は、あまりにも無機質で、私に対する愛情のかけらも感じられなかった。
彼は、私が邪魔になったのだ。
マリアベルという「光」を手に入れた今、「影」である私は不要な存在として切り捨てられる。
私はゆっくりと顔を上げた。
不思議と、涙は出なかった。
ただ、心の中にあった重い鎖が、音を立てて砕け散るような感覚があった。
ずっと、我慢してきた。
母との思い出があるこの家を守るために。
いつか父が振り向いてくれると信じて。
いつかギルバート様が迎えに来てくれると信じて。
でも、すべては幻想だった。
彼らは私を家族とも、婚約者とも思っていなかった。
ただの便利な道具、あるいはサンドバッグとして扱っていただけだ。
「……承知いたしました」
私の声は、驚くほど冷静だった。
会場のざわめきが一瞬止まる。
泣き叫び、許しを請うと思っていたのだろう。
カミラが不快そうに眉をひそめる。
「なによ、その態度は。少しは反省なさい!」
「反省など、いたしません。旦那様のご命令通り、すぐに出て行きます」
私は「お父様」ではなく「旦那様」と呼んだ。
それは、私なりの決別の意思表示だった。
父が一瞬たじろいだように見えたが、私はもう彼を見なかった。
私は一礼し、踵を返した。
背後からマリアベルのクスクスという笑い声と、ギルバート様の「やっと清々した」という声が聞こえる。
どうぞ、お幸せに。
その幸せが、いつまで続くか見ものだけれど。
自室に戻った私は、小さなトランク一つに最低限の着替えと、母の形見のロケットペンダントだけを詰めた。
ドレスも宝石も、私には必要ない。
この屋敷で与えられたものは、すべて置いていく。
裏口から外に出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。
星一つない、曇り空の夜だった。
まるで私の未来を暗示しているようだが、今の私にはむしろ心地よかった。
闇は、影である私の味方だ。
屋敷の門の前で、私は一度だけ立ち止まり、振り返った。
巨大なバーネット侯爵邸が、夜の闇にそびえ立っている。
窓からはパーティーの明かりが漏れ、楽しげな音楽が微かに聞こえてくる。
「……さようなら」
私は右手をかざした。
指先に魔力を集中させる。
これまで、私は毎日、魔力を注いでいた。
屋敷を包み込む「影の結界」。
それは外敵を防ぐだけでなく、建物の老朽化を食い止め、ネズミやシロアリを寄せ付けず、排水の詰まりやカビの発生を極限まで抑え込む、緻密な環境制御魔法だった。
これがあったからこそ、使用人の数が半分に減らされても、カミラが浪費して修繕費を出さなくても、この屋敷は美しさを保っていられたのだ。
「返してもらうわ。私の影を」
呟くと同時に、私は指を握り込んだ。
瞬間、屋敷全体を覆っていた薄い膜のような影が、シュルシュルと音を立てて剥がれ落ち、私の手の中へと吸い込まれていく。
目には見えないが、私にははっきりと分かった。
屋敷を守っていた守護が消え、無防備な裸の状態になったことが。
ズン、と微かな地響きがした気がした。
築百年の重みが、魔法の支えを失って軋んだ音だ。
庭の茂みからは、これまで結界に恐れをなして潜んでいた虫たちが、一斉に這い出し始める気配がする。
地下の下水からは、抑え込まれていた腐臭がわずかに漂い始めた。
もちろん、中にいる彼らはまだ気づかない。
マリアベルの「光魔法」は見た目を飾るだけで、汚れや腐食を防ぐ力はない。
明日から、いや今夜から、この屋敷は急速に本来の姿――手入れを怠った古びた館へと戻っていくだろう。
カビが生え、壁紙が剥がれ、害虫が湧き、原因不明の悪臭に悩まされる日々が始まる。
「もう、私の知ったことではないけれど」
私は回収した魔力を体内に循環させた。
かつてないほど、体が軽い。
屋敷の維持に使っていた莫大な魔力が、すべて私自身に戻ってきたのだ。
指先から溢れ出しそうなほどの力。
これが、本来の私の力なのか。
今まで、この家のために自分をすり減らしてきた。
「影」だと蔑まれながら、誰よりもこの家を支えてきた。
でも、もう終わりだ。
私は自由になったのだ。
門を出て、夜の街道へと足を踏み出す。
行く当てはない。金もない。
けれど、不思議と不安はなかった。
私の影が、足元で嬉しそうに揺らめいている。
『大丈夫、私たちが守るから』と言っているようだった。
「……行きましょう」
私は前を向いた。
背後で、屋敷の窓の一つがガシャンと音を立てて割れる音がした。
何かが壊れ始めた合図だ。
振り返ることはもうしない。
私は闇の中に溶け込むように、静かに、しかし力強く歩き出した。
これが、私が「影の救世主」と呼ばれることになる、長い旅の始まりだった。




