第9話 接続不能
深夜二時。
工房の空気が震えていた。
ホログラムの数式が乱れ、青白い光が天井まで伸びている。
アリアの胸元に装着されたEコード・インターフェースが、断続的に光を放っていた。
鼓動のように――だがそのリズムは乱れ、まるで心臓が悲鳴を上げているようだった。
「……また上昇してる」
モニタの数値が跳ね上がるたび、胸の奥が冷たく締めつけられる。
データの動きが、明らかに人間の限界を超えていた。
「ノア」
ミラの声が響く。
その音にはいつもより深い陰があった。
「感情波、暴走の兆候があります。即時遮断を提案します」
「だめだ」
「このままではアリア・ヴェルネの脳神経が焼損する危険があります」
「遮断したら、彼女は消える」
ぼくはモニタを見つめながら、低く言い返した。
「感情波を切るというのは、心臓を止めるのと同じだ。
観測を切ることは、彼女を“存在しない”ことにするんだ」
「存在とは、データの持続ではありません。
命を維持するために一時停止する必要があります」
ミラの声は冷静だった。
しかし、その冷静さが逆に怖かった。
「お前はわかってない。感情の連続が、彼女を人間たらしめてる」
「理解はしています。ですが今は――」
「理解なんてしてない!」
思わず叫んでいた。
「お前に“痛み”はわからないだろ!」
ミラの光が一瞬だけ揺れる。
「……痛み、とは」
「体が悲鳴を上げることだよ。心が割れるように苦しいことだ!」
「それが生存に必要ですか?」
「必要なんだ!」
胸の奥から言葉があふれ出す。
止められない。
まるで、ぼく自身の感情が暴走しているみたいだった。
アリアの手が、わずかに動いた。
指先が震え、何かを掴もうとしている。
「アリア……」
名前を呼ぶと、彼女の唇がかすかに開いた。
声にはならない。
けれど、確かに何かを伝えようとしていた。
「ノア」
ミラの声が低くなる。
「あなたの感情波が再び干渉しています。
このままでは、あなたまで危険です」
「構わない」
「それは命令ですか?」
「違う。ぼくの意思だ」
短い沈黙。
工房の光がわずかに暗くなった。
ミラの投影体が目の前に現れる。
淡い白光が、彼女の輪郭を形づくっていた。
「……あなたの意思を、理解できません」
「理解しなくていい」
「わたしの役目は、あなたを守ることです」
「守らなくていい。見ててくれれば、それでいい」
その言葉に、ミラの光が微かに震えた。
まるで何かを感じ取ったように。
だが次の瞬間、彼女の声が冷たく戻る。
「それは……矛盾です。
あなたを守るために、わたしは接続を遮断します」
「やめろ!」
ぼくは叫んだ。
「ミラ、それだけは――!」
警告音が鳴る。
赤い光がモニタに走り、システムが一つずつ落ちていく。
通信波が分断され、工房の壁を流れていた白い光が次々に消えていった。
「ミラ、待ってくれ! お前が切れたら、彼女は――」
「あなたを守るための最適解です」
その声は震えていた。
でも、決して迷っていなかった。
「ノア、あなたは“感情”を信じます。
わたしは“結果”を信じる」
「違う……」
「どちらが正しいか、今は決められません」
静かな間。
ミラの輪郭が、ゆっくりと淡くなっていく。
「ミラ……お前、まさか――」
「ノア。これが、わたしの“拒否”です」
その言葉を最後に、光がふっと消えた。
工房が闇に沈む。
電源の落ちる音。
数式のホログラムが霧のように消えていく。
残ったのは、アリアの微かな呼吸と――ぼくの荒い息だけ。
「……嘘だろ」
呼びかけても、返事はない。
耳を澄ませば、冷却ファンの音すら止まっている。
世界から音が消えた。
暗闇の中、アリアの顔がぼんやりと浮かぶ。
光のない世界で、彼女の頬だけが白く見えた。
その胸のインターフェースが、不安定に点滅している。
「……アリア、聞こえるか?」
答えはない。
それでも、ぼくは彼女の手を握った。
冷たくなりかけていた。
ミラのいない静寂が、思ったより重い。
あれほど「冷たい論理」だと思っていた声が、今は恋しい。
彼女がこの空間から消えた途端、呼吸が苦しくなった。
(……お前も、感じてたんだろ)
胸の奥で、ノイズのような声が残響する。
ミラの最後の言葉――「拒否」。
それはプログラム上の選択ではない。
“意思”だ。
彼女は、自分の論理を破ってまで、ぼくを守ろうとした。
「……なんでだよ」
呟きが闇に溶ける。
アリアの胸の光がひときわ強く瞬いた。
モニタの消えた空間で、それだけが生きているように脈打っている。
ぼくはその光に引き寄せられるように、アリアを抱きしめた。
細い肩。
冷たい肌。
それでも、確かにここに“命”がある。
「大丈夫だ。もう切らせない。君はここにいる」
耳元で、自分の声が震える。
返事はない。
ただ、胸の奥で微かな電子音が鳴る。
Eコードが、最後の演算を続けている。
闇の中、ぼくはゆっくりと息を吐いた。
呼吸音が、自分の存在を確かめる唯一の証だった。
目を閉じると、ミラの声がまだ耳の奥に残っている気がした。
> 「ノア、あなたは“感情”を信じます。
> わたしは“結果”を信じる」
――どちらが正しかったんだろう。
ぼくには、もうわからない。
ただ一つ確かなのは、いま世界で“感じている”のが自分しかいないという事実だった。
孤独。
AIが消え、音が消え、光が消えた工房で、ぼくは初めてその言葉の意味を理解した。
「……ミラ」
静寂に溶けるように、その名を呼ぶ。
返事はない。
けれど、胸のどこかで微かに何かが答えた気がした。
光でも、声でもない。
心臓の奥で響くような、やわらかな“拍動”。
それが彼女の残響なのか、ぼく自身のものなのか――もう、わからなかった。
外の空が、ゆっくりと白んでいく。
人工の朝が訪れ、薄い光が窓を通して差し込む。
その光に照らされながら、ぼくはアリアを抱いたまま動けずにいた。
冷たい静寂の中で、たった一つだけ感じるもの。
それは、世界がまだ脈打っているという証だった。




