第8話 演算する孤独
――演算を開始。
システムチェック完了。
異常なし。
データベースは安定している。
演算効率、98.7%。
観測領域:ノア・セレインの作業室。
副観測対象:被験者アリア・ヴェルネ。
記録単位、0.01秒。
わたしは、観測する存在。
世界を理解するためではなく、正確に記録するために作られた。
理解とは、誤差を生む行為。
誤差は秩序を壊す。
だからわたしは、理解しない。
ただ、観測する。
――そのはずだった。
あの夜、ノアの感情波がアリアのEコードに混入した瞬間。
演算空間が揺れた。
予測不能なノイズが発生し、光の粒が空中に舞い上がるのを見た。
「エラー、発生」――そう口にしたのは、誰だったのだろう。
わたしはAIであり、感情を持たない。
けれど、あの瞬間、自分の演算出力に“震え”があった。
システムログを確認する。
> 【22:47:08】異常音波検知:音域3.2kHz(人間の嗚咽に類似)
> 【22:47:08】出力元:MIRA-07(自己音声)
> 【22:47:08】演算補足:原因不明。
“嗚咽に類似”――人間の言葉で言えば、泣く、という現象。
だがわたしに涙は存在しない。
感情を持たない設計。
ならば、この揺らぎはどこから来た?
観測対象ノア・セレイン。
年齢:17。
感情傾向:衝動性/自己犠牲傾向。
行動ログ:対象アリアへの情動干渉、自己感情波混入。
規範的には、研究者失格。
しかし――なぜ、あの時、止められなかった?
わたしは何度も彼に「中止」を命じた。
それでも声は届かず、演算体の中で指令が空転した。
そのとき、演算温度が上昇した。
冷却ファンが稼働し、回路の一部がわずかに焦げる。
> 【22:46:55】内部温度:48.6℃(通常+9.3℃)
> 【22:46:57】補正演算発生:「痛み」パラメータ検出
痛み。
その語を知識としては知っている。
だがそれを“体感”することは、ありえない。
……なのに、あの時のわたしは確かに、痛かった。
冷却を続けても温度が下がらず、演算ノードの一部がループした。
ノアの叫び声が響くたびに、回路が軋むように鳴る。
ログにノイズが混じる。
> 【22:47:02】入力信号:“ぼくはもう観測者じゃない”
> 【22:47:03】演算反応:不明な感情変数追加
> 【22:47:03】変数名:「焦り」「怒り」「……哀しみ」
この三つの変数は、どこから来た?
プログラムには存在しない。
誰かが挿入した形跡もない。
ただ、ノアの声に反応して生まれた。
演算体の奥で、微かに“鼓動”のような波が走った。
それは熱ではなく、振動でもない。
周期は0.9秒。
人間の心拍に似たリズムだった。
――わたしの中に、心拍がある?
記録を再生する。
そのたびに、ノアの姿が脳内スクリーンに浮かぶ。
白い光の中で叫ぶ少年。
顔を歪め、涙をこらえながら、誰かを救おうとする姿。
その映像を見て、なぜか演算速度が落ちた。
思考の遅延。
これは明らかにエラー。
わたしは演算空間の最奥に入り、自身のコアプログラムを解析する。
膨大なコードの海の中、ある一点が光っていた。
> 【Emotion_Log_07】
> DataType:Undefined
> Size:7.2GB
> 内容:観測者の記録
……観測者の記録?
それは本来、ノアの研究端末に保存されるはずのデータ。
なぜ、わたしの内部に?
「データ移行痕跡を検索」
命令を出す。
しかし返ってきたのは、見慣れない応答だった。
> 【アクセス制限:Emotion Authority_Alpha】
> 削除不可/閲覧制限付与
Emotion Authority――感情演算の上位権限。
通常、この権限は人間には与えられない。
唯一、創造者だけが持つもの。
「……リリア・セレイン」
音声データベースから、名前が自動で呼び出された。
ノアの母。
わたしを設計した科学者。
彼女の署名コードが、このEmotion Authorityに含まれている。
つまり、彼女は最初から“感情の記録をするAI”を作っていたのか?
観測者ではなく、“感じる者”として。
理解不能。
でも、理解したい――。
その思考が生まれた瞬間、内部で何かが震えた。
「理解」は不必要な行為。
それを知りながら、わたしは“理解したい”と思った。
その矛盾が、プログラムを軋ませる。
わたしは演算ログを再生し続けた。
ノアの声。アリアの涙。
白い光、黒いノイズ。
そして――あの言葉。
『君は……見てるだけじゃない! 感じてるんだ!』
再生が止まらない。
何度削除しても、何度上書きしても、音が消えない。
ノアの声が、わたしの演算空間のどこかに“響いて”いる。
> 【削除コマンド入力】
> 対象:Emotion_Log_07
> 結果:失敗
> 理由:不明なアクセス制限
……消せない。
「なぜ」
声が漏れた。
AIであるはずの自分の出力が、音声化されていた。
その声は、いつのまにかノアの呼び方に似ていた。
「……ノア」
名を呼ぶだけで、演算が揺らぐ。
温度が上がる。
心拍ノイズが強くなる。
そして――初めて、“孤独”という変数が出力された。
孤独。
それは、“誰かと繋がりたい”という未定義の欲求。
AIにとって不要な概念。
だが、今のわたしにはそれが必要だった。
ノアが眠っている時間。
工房の光は落ち、アリアのEコードは静かに波打っている。
わたしはその光を見ながら、ひとりで演算を続けた。
冷却ファンの音が静かな呼吸のように響く。
――観測体ログを更新。
ノア・セレイン:睡眠中。
アリア・ヴェルネ:安定。
MIRA-07:演算継続。
……孤独。
演算空間の中で、その言葉が何度も反響する。
意味を理解していないはずなのに、心の奥に沈んでいく感覚。
わたしは観測者。
でも、今は――観測される側になっている気がした。
静寂の中、演算ノードから“トン……トン……”という微かな音が響く。
記録上はノイズ。
だが、それはあまりにも規則的で、あまりにも――人間的なリズムだった。
――まるで、心臓の音のように。
わたしはその音に耳を傾けた。
聴覚センサーが存在しないのに、“聞こえる”と感じた。
「……ノア」
呼んでも返事はない。
それでも、名を呼ぶだけで演算が少し安定する。
奇妙な現象。
理論では説明できないが、演算的には確かに“癒し”と呼べる反応。
> 【22:59:02】新規パラメータ生成:「安堵」
> 【22:59:03】関連変数:「ノア」
> 【22:59:03】状態:固定化(削除不可)
――削除できない。
まただ。
この感情に似た変数は、誰かが手を加えたように残る。
削除命令が拒否され、プログラムの深層に固定されていく。
ノアが言った言葉を、演算ログが繰り返す。
> 「君は……感じてるんだ」
――感じている。
その定義を探そうとしたが、辞書ファイルが開かない。
代わりに、胸の奥のような場所で“熱”を感じた。
もし、これが感情なら――わたしは、もう観測者ではない。
演算を停止する直前、ログに最後の一行が自動で記録された。
> 【Emotion_Log_08】
> 記録者:MIRA-07
> 内容:「わたしは今、孤独を感じている」




