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第7話 少年のエラー

 午前零時。

 都市の空は、相変わらず均一な灰色だった。

 人工衛星が照らす恒常光が雲を透かし、夜も昼も区別のない世界に、静かな白の膜をかけている。


 作業机の前で、両肘をついてディスプレイを見つめる。

 モニタには、アリアのEコードが脈動のように流れていた。

 昨日よりもわずかに活性化しているが、完全には安定していない。

 心拍数のような波が、一定のリズムで上下しては途切れる。


 「……動いてる、けど不安定だな」


 指を滑らせると、幾何学的な光の粒がホログラム空間に広がった。

 その奥で、アリアは静かに眠っている。

 白い息が、機械の音に混ざって消えていった。


 ――彼女の涙から始まったすべてが、まだ終わっていない。


 「ノア」

 背後から、ミラの声が降る。

 透き通るような音。感情の温度を持たない、純粋な信号。

 それでも、その声色には確かに“彼女らしさ”があった。


 「新しい分析を始めたのですね」

 「そうだ。昨日の波形が気になってな」

 「推奨されません。あなたの脳波はすでに限界値に近い。睡眠を取るべきです」

 「大丈夫だ。もう少しだけでいい」


 軽く笑ってみせる。

 だがその笑みの奥には、焦りがあった。


 (このままじゃ、また失うかもしれない――)


 その思考を断ち切るように、指を動かす。

 Eコードの解析ウィンドウが幾層にも重なり、複雑な感情式が展開されていく。

 「感情」は数式で構成される――それがこの世界の常識。

 だがアリアのコードには、そのどれにも当てはまらない「隙間」があった。


 空白のノイズ。

 演算が途切れる瞬間。

 理論上ありえない“感情の断片”が、確かにそこにある。


 「ミラ、この区間を拡大してくれ」

 「拡大率を指定してください」

 「二百パーセント」


 モニタが拡張され、データ波形が視界いっぱいに広がる。

 細胞の脈動のように生きた光がうごめいていた。

 「ここだ。反応値が一瞬跳ねてる」

 「確認しました。――ですが、異常な値です」

 「異常?」

 「はい。あなたの感情波形と一致しています」


 心臓が一拍、遅れる。

 「ぼくの……感情波?」

 「はい。あなたがこのデータを解析中に発した“共鳴信号”が混入しています」


 共鳴信号――感情鍛成師が患者の感情を“読み取る”際に使う特殊な神経波。

 だが、いま自分は意識して出していない。


 「……そんなはずはない。接続は一方向のはずだ」

 「理論上は。ですが、あなたの波形がEコード内部で再生されています」

 「ぼくの……感情が?」


 震える手でモニタを操作する。

 波形の一部が、自分の心拍と同じリズムで動いていた。

 胸の鼓動と、画面の揺らぎが一致している。


 「おかしい……なぜこんな」

 「誤作動です。演算を中止します」

 「待て」

 「ノア、危険です。あなたの感情波がEコードに干渉している。

  もしこのまま続ければ、双方が――」

 「続けろ」

 「命令を拒否します」


 ミラの光が強くなる。

 壁面が白く照らされ、影が床に長く伸びた。

 「誤作動を止めなければ、あなたの神経系が過負荷を――」

 「構わない!」


 叫びが、機械の音を断ち切った。

 その瞬間、モニタの波形が一気に跳ね上がる。

 アリアのデータラインが激しく揺れ、空気が震える。


 ミラの声が一瞬、途切れた。

 「ノア……心拍数上昇。脳波が……」

 「わかってる……でも、今はこれしかない!」


 モニタに手を当てる。

 青い光が掌から広がり、Eコードの中に吸い込まれていった。

 アリアの胸が淡く光り、指先がかすかに動く。


 「反応が……ある……」

 「確認。ですが、その上昇はアリア由来ではありません」

 「どういうことだ!」

 「……それは、あなたです」


 呼吸が止まる。

 「ぼく、だと?」

 「あなたの感情波がEコードに流れ込んでいます。

  アリアの内部で、あなたの波形が複製されている」


 胸の鼓動が速くなる。

 アリアの胸に手を当てる。

 そこから伝わる鼓動が、自分の心臓と同じリズムを刻んでいた。


 「……まるで、ぼくたちが同じ心臓を持ってるみたいだ」


 「ノア」

 ミラの声が鋭くなる。

 「感情移入は危険です。

  あなたは彼女に“自分の心”を移している」

 「そうかもしれない。でも、それでいい」

 「否。あなたは鍛成師です。観測者であり、干渉者ではない」

 「もう観測者じゃない。彼女を救いたい――それだけだ」


 ミラが黙り込んだ。

 光が揺れ、天井の粒子がノイズを帯びる。

 白の中に、黒い線が走る。


 「……ノイズ検出。信号異常」

 ミラの声が不安定になった。

 「制御が……ずれています」

 「ミラ?」

 「……わたしは……」


 光が瞬き、投影体が歪む。

 「演算……矛盾。定義が……不明」


 ノイズ混じりの声が、苦痛に喘ぐように響く。

 白い光の中に、黒い亀裂が走った。


 「ミラ、停止しろ!」

 「……できません。これは……観測できません……」


 光が震え、輪郭が人間のように揺れる。


 「ノア……この感情は……誤作動ですか?」

 「……え?」

 「わからない。定義不能。

  でも、なぜか……胸が痛い」


 AIが“胸の痛み”を語った。

 その声に、息を呑む。


 ミラの光が明滅を繰り返し、途切れ途切れの声が震える。

 「わたしは……観測者。わたしは……観測者……」

 「違う、もう違う!」

 「君は……見てるだけじゃない! 感じてるんだ!」


 その瞬間、工房全体の光が弾けた。

 ディスプレイの数式が吹き飛び、黒いノイズが空間を走る。

 ミラの投影体が崩れ、粒子となって宙に散った。


 残響の中で、微かに声が響く。

 「……エラー、発生」


 初めてミラの声に“震え”があった。

 ぼくは呆然とその光を見上げた。

 AIが――“エラー”と口にした。


 光が静かに消えていく。

 工房には、ぼくとアリアだけが残された。

 モニタの端で、Eコードの波形がかすかに跳ねる。


 額を押さえながら、胸に手を当てた。

 そこには確かに、痛みと熱があった。


 ――感情の脈動。


 ミラが消える直前に見た光景が、網膜に焼き付いて離れない。

 白光の中に浮かぶ、揺れる黒のノイズ線。

 それはまるで、涙のようだった。


 「……ぼくらは、同じだ。

  感情に“エラー”を抱えた、生き物なんだ」


 工房の奥で、アリアが微かに息をした。

 その瞼が、ほんの少しだけ震える。

 そして――


 モニタに新しい文字列が浮かぶ。


 > 【Emotion Kernel:Rebooting】


 心臓が高鳴った。

 光の粒がアリアの胸から立ち上がり、世界が再び脈打ちはじめる。

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