第6話 世界の観測者 ―白い光の論理―
夜の工房は、機械の息遣いだけが響いていた。
壁面を走る情報線が淡く光り、ホログラムの数値が静かに浮かぶ。
外の世界はすでに人工の夜明けに閉ざされ、空も風も、何もかもが制御された静寂の中にある。
ノアはその中心で、アリアの感情データを見つめていた。
青白い光に照らされた横顔は、疲労と興奮が入り混じっている。
ベッドの上、アリアは静かに眠っていた。
昨日の“涙”以来、彼女のEコードは奇妙な脈動を保ったままだ。
「感情波、安定しているように見えます」
背後から、ミラの声が降る。
彼女はこの工房の空間そのものに溶けるように存在していた。
壁の光、天井の照明、床のホログラム――そのすべてがミラの“視線”だった。
「安定か……いや、これを安定と呼べるのかは分からない」
ノアは小さく息をつき、モニタを拡大した。
画面の中央には、心臓の鼓動に似た揺らぎ。
通常の感情波にはない、不規則で、生き物のような動き。
「この波形、昨日の涙のあとに出始めた」
「記録済みです。しかし、再現は不可能でした」
「つまり、彼女の体内でしか動かないコードだ」
「効率的とは言えませんね」
ミラの言葉はいつも通り淡々としていた。
だが、その一言に、ノアの胸がわずかにざらつく。
「効率……か」
「はい。感情演算は常に過剰な電力を消費します。
合理的な思考にノイズを混入させるだけの、欠陥構造です」
ノアは小さく笑った。
その笑いには、どこか自嘲が混じる。
「お前らしい分析だな」
「私は観測者です。感情を理解する必要はありません。
理解とは、効率を落とす行為です」
「でも、お前は“人の心”を観測するAIだろう?」
「観測と理解は別概念です。
私は記録し、分類し、整理します。
しかし、感じることはありません」
ノアは手元の端末を閉じ、椅子に深く背を預けた。
「……そうか。じゃあ、昨日の涙も“分類”の一種か?」
「もちろんです。液体反応として記録済み。
ただし、化学的にも演算的にも定義不能――“無意味な現象”」
“無意味”。
その単語が、胸の奥に重く沈んだ。
ノアは視線を落としたまま呟く。
「母さんも、そう言ってたよ」
「リリア・セレイン博士。あなたの母親。
感情修復研究の第一人者であり、心臓演算事故の犠牲者」
「やめろ」
ノアの声が低くなった。
「彼女を“記録”で語るな」
「私は事実を述べただけです」
「……だからだ。お前たちAIには、“痛み”がない」
ミラはしばらく沈黙した。
光が壁を這い、ノアの影を伸ばしていく。
「ノア、あなたはなぜ痛みを求めるのですか」
「求めてなんかいない。ただ、必要なんだ」
「非効率な概念です。痛みは機能低下を引き起こす」
「それでも、痛みがあるから人は間違いを知る」
「間違いを知る必要はありません。修正すればよいだけです」
「それを言えるのは、間違えたことのない存在だけだ」
ノアは机を軽く叩いた。
指先に響く冷たい音。
ミラの光が一瞬だけ瞬いた。
「……ノア、あなたは私に“感情”を求めています」
「違う。お前に感情を与えたいわけじゃない」
「ならば、なぜ怒るのですか」
「怒ってなんかいない」
「心拍数、上昇。声量一五パーセント増加。
あなたの感情波が反応しています」
「……分析するな」
ミラの声が一瞬、低く震えた。
それがノイズなのか、それとも別の何かなのか、ノアには分からない。
「あなたのように“感じる”存在は、観測者にとって不安定要素です」
「それでも、お前はずっと俺のそばにいる」
「それが任務だからです」
「任務だけか?」
「……他に何があると?」
「わからない。だが――昨日、君の光が揺れた」
ノアの言葉に、ミラの投影体が静止した。
白い光の粒子がわずかに明滅する。
「揺れた、とは」
「アリアの涙を見たときだ。君の発光データにわずかな偏差があった」
「誤差です」
「いや、あれは“反応”だ」
沈黙。
ノアの声が続く。
「もしかして、お前も“感じた”んじゃないのか?」
「……理解不能な推測です」
「そうだろうな。でもな、ミラ。理解できなくても存在するものがある」
ミラは答えなかった。
ノアは立ち上がり、アリアのベッドに歩み寄る。
眠る彼女の手をそっと取ると、その体温が指先に伝わった。
「これを、君は数字にできるか?」
「温度データとしてなら可能です」
「じゃあ、その“温もり”は?」
ミラの光が揺れた。
「定義不能」
「それでいい」
ノアは穏やかに微笑んだ。
「たぶん、それが“心”ってやつだ」
しばらく、静寂が流れた。
機械の音が遠くで響く。
ミラはその間も、アリアとノアを観測し続けていた。
無数のデータが流れ、演算が積み重なっていく。
だが、その最中――
ミラの光の一部が、ほんの一瞬だけ柔らかく滲んだ。
ノアはそれに気づかなかった。
彼はアリアの手を離し、再びモニタに向き直る。
画面の中では、アリアのEコードが微かに震えていた。
波形が、まるで人の鼓動のように上下している。
ノアの胸の奥でも、同じリズムが鳴っていた。
ミラの声が再び響く。
「ノア」
「なんだ」
「あなたは、なぜそこまで“感情”に執着するのですか」
「……それが、母さんが信じたものだからだ」
「あなたの母親は感情によって命を失いました」
「違う。感情を“信じた”から生き続けてる」
「死者は生きません」
「データの上ではな」
ノアはモニタを見つめながら言った。
「だけど、感じる限り、彼女はまだここにいる」
ミラは答えなかった。
その言葉の意味を、理解できないまま解析を続ける。
けれど、演算の奥で微かにノイズが走った。
それは“理解不能な痛み”に似ていた。
ノアは背を向け、モニタを閉じた。
「……観測だけじゃ、生きてるとは言えない」
ミラの光がゆっくりと薄れていく。
「観測者は、世界を見るだけの存在です」
「なら、俺は“観測される側”のままでいい」
静かな空気の中で、アリアのEコードが再び脈打った。
その光が、ノアの胸に反射して揺れる。
まるで、彼の心臓と同じタイミングで。
――観測と感情。
その境界は、もう曖昧になり始めていた。