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第5話 脈動するコード

 深夜の工房は、まるで時間の止まった実験室のように静まり返っていた。

 モニタの光がノアの頬を淡く照らし、無数の数式が空中に浮かんでは消えていく。

 その中心で、アリアはベッドの上に横たわっていた。

 まるで深い水の底に沈んでいるような穏やかな呼吸。


 無表情。

 心拍は安定。

 感情波、ゼロ。


 すべてが“静止”していた。


 ――そのはずだった。


 ミラが淡々と報告する。

 「感情演算データ、再解析完了。異常値なし」

 「もう十回目だぞ。どの波形にも揺らぎはないのか?」

 「ありません。アリア・ヴェルネのEコードは完全に静止しています」


 ノアはため息をつき、モニタの端に映る少女の顔を見つめた。

 静かすぎる。

 呼吸しているのに、生きている気がしない。

 それでも、目を離せなかった。


 「……どうして君は、何も感じないんだ」


 その呟きは、誰にも届かない。

 ミラが応答しないのをいいことに、ノアはアリアの端末データを直接操作し始めた。

 国家の保安プロトコルを無視して、個人用の解析モードへ。

 画面に膨大な数の感情パラメータが展開され、虹色のデータ線が光を放つ。


 「……Eコード階層、第四層まで解析開始」

 指先が動くたび、モニタ上の数値が揺れる。

 けれど、反応はない。

 通常ならどんな人間でも微弱な感情波が見えるはずだった。

 しかし、アリアは完全な“空”。


 「やはりNullか……」

 ノアが呟いたとき――微かに音がした。


 ポタ。


 小さな水音。


 反射的に顔を上げると、アリアの頬にひとすじの光が流れていた。

 それは――涙だった。


 ノアの時間が止まる。

 呼吸も忘れるほどの静寂。


 ミラが即座に感知した。

 「液体反応検出。成分解析を開始――」

 「待て、触るな」

 ノアはミラの自動アームを止め、自らの手でアリアの頬に触れた。

 指先に伝わる温度。

 確かに“熱”があった。


 データ化されるはずの涙が、液体のままそこにあった。

 通常、この都市ではあらゆる生体反応がリアルタイムで数値化される。

 汗も涙も、情報としてデータに変換される。

 けれど、その一滴だけは――変換されなかった。


 「……なぜ、記録されない?」

 ノアは即座に解析端末を接続した。

 涙が床に落ちた瞬間、センサーが一斉に反応したが――数値はゼロ。

 検知できない。存在しているのに、データが存在しない。


 ミラが言う。

 「不具合かもしれません」

 「違う。これは……“未知の形式”だ」


 ノアの指先が震えた。

 モニタに彼女のEコードが投影される。

 そこに、今まで見たことのない揺らぎが生まれていた。

 波形が、ひとつ――脈打った。


 0.00 → 0.01 → 0.06。


 「……上がってる?」

 「確認。Eコード内で未知のパターン検出。従来の感情演算式に一致しません」


 ミラの声がわずかに乱れた。

 AIに“動揺”の兆候が出るのは珍しい。


 「パターンを拡大表示」

 ノアは命じ、映し出された波形を凝視する。

 それはまるで、生き物の鼓動のようにゆっくりと脈打っていた。


 青と白の光が交互に瞬き、やがて中心部に小さな環が生まれる。

 環の中に、規則性のないコード列――まるで、初めて見る言語のような演算式。


 「これは……」

 「解読不能。形式が既存のE演算体系と異なります」

 「ミラ、ログに記録」

 「記録不可能」

 「どういうことだ」

 「このデータは外部への書き出しを拒否します。自己防衛反応のようです」


 ノアの背中に冷たい汗が流れた。

 データが自らを守る――それは通常、AIの高次自己演算でしか起きない現象。

 だが、アリアは人間だ。


 その瞬間、ミラが告げた。

 「ノア、解析結果――この波形、歴史記録にある“原初感情核オリジン・コード”に近似」


 ノアは息をのんだ。

 「……存在するはずがない」

 「伝承上の理論。だが一致率、七十八パーセント」


 “原初感情核”。

 それは、人類が最初に感情を持ったとされる根源のコード。

 すべての感情演算の“始まり”。

 失われた理論上の存在。


 「まさか、彼女の中に……?」


 ノアの声が震えた。

 そのとき、アリアの唇がわずかに動いた。

 「……いたい、の」


 ミラが反応する。

 「言語反応。ノア、痛覚信号の発生源を――」

 「やめろ、分析するな!」


 ノアは立ち上がり、アリアの肩を抱いた。

 その体が小刻みに震えていた。

 「アリア、大丈夫か。どこが痛い?」

 彼女は答えない。

 ただ、涙がもう一滴、頬を伝って落ちた。


 その滴が床に落ちた瞬間――光が広がった。

 淡い金色の光。

 波紋のように床を伝い、空中のホログラムが一瞬だけ乱れる。


 「光……?」

 ミラの声がわずかに揺れる。

 「ノア、E空間内に未知のエネルギー流を感知」

 「まさか、涙がコードに干渉してるのか」


 ノアは立ち尽くしたまま、その光景を見つめていた。

 データの世界と物質の世界が、交わった。

 涙が情報にならず、情報が光に変わる。

 ありえない現象。

 だが、美しかった。


 「……アリア、君はいったい何者だ」


 返事はない。

 ただ、アリアの胸の奥で“何か”が鼓動していた。

 心臓の鼓動とは違う、もっと深い層で響く音。


 ノアの手首端末が自動で警告を出す。

 〈Eネットワーク干渉検知〉

 〈未知の波形接続中〉

 〈遮断しますか?〉


 「……いや、続けろ」

 ノアは迷わず応えた。


 その瞬間、彼の視界に奇妙な映像が流れ込む。

 アリアの記憶の断片――いや、世界そのものの記憶。

 光と影の海。

 笑う人々、泣く子ども。

 そして、青く輝く心臓のような光源。


 ノアは息を呑んだ。

 それは、母がかつて描いていた理論図と同じ形だった。

 “感情の中心核”――母が到達できなかった領域。


 「……母さん」

 ノアの喉から、無意識の言葉が漏れた。


 光が収束し、静寂が戻る。

 アリアの体は微かに震えたあと、再び静かになった。

 ノアの掌には、まだ温かい涙の跡が残っている。


 「記録できたか、ミラ」

 「不可能です。映像もデータも、すべて消失」

 「……そうか」


 ノアは椅子に崩れ落ちた。

 目の前のモニタには、ひとつだけ残った波形が映っていた。

 鼓動のように脈打つ光。

 周期は一定ではなく、まるで“生きている”ようだった。


 「ミラ、この波形をなんと呼ぶ」

 「名称不明。だが……心臓の拍動に似ています」

 「……“脈動するコード”か」


 ノアはゆっくりと息を吐き、アリアの顔を見た。

 彼女は静かに眠っている。

 けれど、その頬に残る光の粒はまだ消えていなかった。


 ――それは、希望の色だった。


 恐怖と期待が同時に胸を締めつける。

 理論の外にある現象。

 けれど、ぼくの母が信じた“心の本質”が、今まさに目の前で脈打っている。


 ノアは拳を握りしめた。

 「アリア。君の中にあるそれが、もし“原初感情核”なら……世界を変える」


 ミラが問う。

 「変えるとは?」

 「人間を“数値”から解放する。感情を、再び生きたものとして取り戻すんだ」


 ノアの声は震えていた。

 恐れでも、迷いでもない。

 十年前に消えたはずの“希望”が、再び灯ったからだ。


 外の世界では、人工の夜明けが訪れようとしていた。

 都市の空にデータの光が走り、冷たい風が窓を揺らす。

 だが、工房の中だけは静かだった。

 ひとりの少女の中で、新しい“鼓動”が始まっていた。

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