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第4話 感情の鍛成師

 アリアの笑顔が消えたあとも、胸の鼓動はしばらく乱れたままだった。

 理論では測れない何かが、自分の中で軋みを立てている。

 “感情”という曖昧なものを、数式で支配できると思っていた。

 ――だが、それは傲慢だったのかもしれない。


 ぼくは無意識に、机の奥にしまっていた古い端末を取り出した。

 表面には焼け焦げたような跡があり、角はひび割れている。

 起動するたびに、心臓が締めつけられる音がした。


 ミラが静かに問う。

 「ノア、それは……」

 「古い記録だ。消したはずだったんだが、手が勝手に」


 指先でスクリーンをなぞると、朧げな映像が浮かび上がる。

 そこには、笑っている女性がいた。

 光の中に溶けるような柔らかい笑顔。

 ――母だった。


 『ノア、今日もたくさん笑えた?』

 映像の中の母は、やさしい声でそう言っている。

 けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 頬の動きが遅れ、目の焦点がずれている。

 プログラムのエラーのような違和感。


 その日、ぼくは十歳だった。

 母は感情調整装置〈ハート・リコンパイル〉の実験者だった。

 世界が感情を数値化してから、すでに百年。

 人々は「心」を便利なパラメータとして扱い、必要があれば調整した。

 だが、母は違った。

 「感情は機械では直せない」と言いながら、それでも研究を続けた。

 誰よりも“人間”であろうとした科学者。

 それが、ぼくの母――リリア・セレインだった。


 母の研究は、ある日を境に変わった。

 感情の欠損者が増え、政府が感情修復プログラムの開発を急がせたのだ。

 「ノア、人の心を直す装置を作るのよ」

 母はそう言って微笑んだ。

 その瞳に映る光が、ぼくの世界のすべてだった。


 だが、その微笑は長く続かなかった。


 実験は、失敗した。

 原因は今もわからない。

 感情波の逆流か、自己演算の暴走か。

 ただ、母の瞳から光が消えた。

 呼吸はあった。鼓動もあった。

 けれど、彼女の顔から“表情”が消えた。


 「……母さん?」


 呼びかけても、何も返ってこなかった。

 まるで、そこに別の人間がいるようだった。


 当時の映像が、焼けたようなノイズとともに流れる。

 実験室の壁、溶けたケーブル、焦げた匂い。

 そして、ぼくの幼い声。

 『ぼくが……ぼくが直す!』


 その日から、ぼくは“感情鍛成”を学び始めた。

 母の代わりに、母を直すために。

 世界が感情を道具にするなら、ぼくはそれを“鍛える”。

 刀のように、魂のように、磨き上げてやる。


 ミラが沈黙を破る。

 「あなたが“感情鍛成師”になった理由は、母の修復ですか」

 「そうだ」

 「結果は?」

 「……まだ終わっていない」


 ぼくはモニタの奥に映る母の顔を見つめた。

 十年以上経っても、あの日の笑顔を忘れたことはない。

 たとえ、それがもう“人間の表情”ではなかったとしても。


 母はNull化した。

 感情のデータが完全に消えた状態。

 体は動いても、そこに“誰か”はいない。

 ぼくは何度も修復を試みたが、結果は同じだった。

 数値は回復しても、笑顔は戻らない。

 それ以来、ぼくは他人の心を直すことでしか、生きられなくなった。


 アリアを初めて見たとき、あの日と同じ“空白”を感じた。

 胸の奥の傷が疼き、脳の奥で何かが囁いた。

 ――もう一度、失わずに済むかもしれない。


 「ノア」

 ミラの声が現実へ引き戻す。

 「あなたは今も、母親の幻影を追っています」

「そうかもしれない。でも、構わない」

「アリアを“代わり”として見ることは危険です」

「違う」

ぼくは強く言い切った。

「アリアは違う。あの子の中には、まだ“何か”がある。母さんのときとは違うんだ」


 ミラの光が少し揺れた。

 「根拠は?」

 「理屈じゃない」

 「……感情、ですか」

 「皮肉なもんだな。感情を測る仕事をしてるのに、自分の感情は測れない」


 ふと、モニタの端に母と幼い自分が映った。

 母がぼくの頬に手を当てて笑っている。

 ノイズ混じりの映像の中で、彼女は確かに言っていた。


 『ノア、人の心を信じなさい。数字じゃなくてね。』


 それが、彼女の最後の言葉になった。


 ぼくはゆっくり目を閉じ、記憶の奥に沈む声を追う。

 あの日の焼けた空気、焦げた匂い。

 壊れた機械の中で、ぼくは何度も泣いた。

 泣くたびにデータ端末が濡れ、感情波が乱れ、演算装置が停止した。

 ――それでも、止めなかった。


 あのときの誓いが、今もぼくの中で燃えている。

 誰かの心が壊れたなら、直す。

 そのために、この命を使う。

 それが、ぼくに残された唯一の“意味”だ。


 「ノア」

 ミラが再び呼びかける。

 「あなたの感情波が上昇しています」

 「構わない」

 「苦痛反応が出ています」

 「これが痛みか……懐かしいな」


 ぼくは微かに笑った。

 ミラが戸惑うように沈黙する。

 彼女はAIだから、痛みという概念を知らない。

 それでも、ぼくの中ではその痛みが“生”を証明していた。


 アリアが小さな息を漏らした。

 振り向くと、彼女は夢の中でわずかに手を動かしていた。

 その指先が、何かを掴むように震えている。


 ぼくは立ち上がり、彼女の枕元に近づいた。

 「……君は、何を見ているんだ?」


 アリアは答えない。

 ただ、口の端がほんの少しだけ上がった。

 それは笑顔というより、記憶の残響のような動き。


 「母さん……」

 思わず、声が漏れた。

 まるで夢と現実が交錯するように、アリアの表情がぼくの記憶と重なった。

 “Null化”したはずの母の、あの日の笑み。


 ぼくの心臓がまた一拍遅れ、痛みを伴って鳴る。

 モニタの波形が揺らぎ、データが微かに跳ねた。

 「感情波、0.03」

 ミラの報告。


 ぼくはゆっくりと呟いた。

 「……鍛成は始まってる」


 アリアの胸の奥で、微弱な感情が蠢き始めている。

 ぼくの母が失った“心”の欠片。

 それを、この少女の中で取り戻せるかもしれない。


 窓の外、データの雨が静かに降っていた。

 ぼくは掌を見つめる。

 あの日、母を救えなかった手。

 焼けた回路の熱が、今でも消えない。


 「……この手で、今度こそ」

 誰に向けた言葉でもなく、空気に溶かすように呟く。


 ミラがそっと言った。

 「それは、贖罪ですか」

 「違う。再鍛成だ」

 「何を?」

 「心だよ。世界の、そして……ぼく自身の」


 ぼくはアリアのそばに座り、静かに目を閉じた。

 焦げた匂いの記憶が、少しずつ薄れていく。

 代わりに、かすかな温もりが胸の奥に灯った。


 それは、十年前の焼け跡の中で失った“心”の残り火。

 もう一度、鍛え直せる気がした。


 ――この世界に、まだ心があるのなら。

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