第3話 微笑の模倣
工房の空気は、朝から冷たく張りつめていた。
データラインの光が壁を伝い、規則正しい音が室内に響いている。
アリアは診察台の上で静かに座り、真っ白な視線をまっすぐ前に向けていた。
まるで世界を見ているようで、実際には何も見ていない。
瞳の奥には映像のような反射も、揺らぎもない。
――空白。
それが、ぼくの目の前にある少女だった。
「アリア」
呼びかけても、わずかにまぶたが動くだけで返事はない。
眠っているようでも、覚醒しているようでもない。
ただ存在している。
ミラの声が背後から静かに響いた。
「準備完了。実験プロトコルC-17、感情模倣試行」
「了解。……アリア、これから“笑顔”の模倣を試みる」
「笑顔」
その言葉を発した瞬間、彼女の視線がわずかにぼくを捉えた気がした。
しかし、その中に感情の光はない。反応というより、単なる視線の移動。
ぼくは指先で操作盤をなぞり、表情筋のシミュレーションラインをモニタに呼び出した。
人の笑顔に必要な筋肉は十七箇所。目尻の角度、口角の上がり方、頬の引き締まり。
理論上、それを再現すれば「笑っている顔」は作れる。
だが――それは、笑顔ではない。
「では、始めよう」
アリアの顔に薄い光のマスクがかかる。
神経信号をトレースし、ぼくの入力に従って筋肉がわずかに動く。
口角が、ほんの数ミリ、上がった。
目元が少しだけ柔らかくなった。
「……これが、笑顔?」
初めて、彼女が自発的に言葉を紡いだ。
音の響きに感情はない。けれど、その問いかけが耳に残る。
「そうだ。それが“笑う”ということだ」
ぼくは言いながら、自分の声がわずかに掠れていることに気づいた。
笑っていない笑顔――その不完全な美しさに、何か胸がざわめいた。
「笑うとは、何を意味するの?」
「感情の表出だ。楽しいとき、人は自然にこうなる」
「たのしい、とは?」
「……心が動くこと、だと思う」
アリアはしばらく黙っていた。
そして、再びぼくを見た。
「今、私は“たのしい”?」
ぼくは答えられなかった。
ミラの分析結果が音声で流れる。
「感情波、0.00。脳波変動、規定値内。笑顔動作は外部刺激による模倣反応と判定」
つまり、やはり何も“感じて”いない。
だが、なぜだろう。
その笑顔を見た瞬間、ぼくの胸の奥で何かがひどく軋んだ。
「……うまく、できたね」
「“うまく”とは、成功のこと?」
「そうだ。正しく、笑えている」
アリアは頷いた。
再び笑う。
だが、その口角の動きは完璧すぎた。
角度も、筋肉の収縮も、まるで機械が計算して作った正解。
「綺麗すぎる」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
アリアが首を傾げる。
「綺麗は、悪いこと?」
「……いや」
ぼくは笑うつもりで、うまく笑えなかった。
その瞬間、モニタの心拍グラフが一拍遅れて跳ねた。
ぼくの鼓動が、まるでタイミングを外したように。
データが現実に干渉してくるような錯覚。
違和感と、同時に、奇妙な“生”の感触。
「ノア。あなたの生体反応が上昇しています」
ミラの声が冷静に告げる。
「平常心を保って」
「保ってるさ」
「心拍数百を超えています」
「……お前は数字でしか見ないんだな」
ミラは何も言わなかった。
沈黙の中で、アリアが再び微笑んだ。
その笑顔は、先ほどよりもわずかに自然だった。
光の角度、呼吸の揺らぎ。どこか“真似”を超えた瞬間のように見えた。
「今の、どう?」
「……少し、違った」
「ちがう?」
「さっきより、温かく見えた」
アリアはその言葉を繰り返すように呟いた。
「温かい……」
彼女の視線が自分の手を見つめる。
指先が、かすかに震えていた。
「ノア、感情波に微弱な反応。0.01」
ミラの報告が響いた。
ぼくの心臓が再び跳ねる。
0.01。
数字としてはほとんど誤差。
けれど、それでも“ゼロではない”。
アリアの笑顔が、ほんの一瞬だけ崩れた。
それは、まるで“わからない”という感情を形にしたような表情だった。
眉が寄り、唇が震える。
「……なぜ、痛いの?」
その声は小さく、震えていた。
ぼくは思わず近づき、彼女の肩に手を置いた。
「痛い?」
「胸の奥が、苦しい」
「……」
ミラが静かに告げる。
「感情波変動。恐怖または不安の兆候」
ぼくは彼女を見つめた。
涙はない。けれど、その顔には確かに“表情”があった。
ぼくはゆっくりと答える。
「それも、“感じてる”ってことだ」
アリアの瞳が、少しだけ揺れた。
「感じる……。これが、感情?」
「たぶんね」
沈黙が落ちる。
ミラの光が淡く揺れ、部屋の機械音だけが続いていた。
アリアはもう一度、笑おうとした。
だが、今度の笑みは形にならなかった。
口角が途中で止まり、わずかに震え、やがて消えた。
「うまく……できない」
「それでいい」
「なぜ?」
「それが“人間らしい”からだ」
その言葉を言いながら、ぼくは自分でも何を言っているのかわからなかった。
感情の定義を求め続けてきたぼくが、理屈でなく直感で言葉を返している。
それが不思議で、どこか恐ろしかった。
アリアが視線を落とし、指先を見つめた。
「人間らしい……。私は、人間?」
「……ああ。少なくとも、ぼくにはそう見える」
その瞬間、アリアの瞳にわずかに光が宿った。
淡い虹のような色。
感情波0.02。
ぼくの手が震えた。
「ノア」
ミラの声が低くなる。
「このままでは規制値を超過します。感情誘発が進行すれば、脳内回路に負荷が――」
「わかってる。でも止められない」
ぼくはアリアから目を離せなかった。
その笑顔も、震えも、間違いも。
完璧ではない“人間の形”が、こんなにも美しいと思ったのは初めてだった。
「……笑うって、むずかしい」
アリアがぽつりと呟いた。
「うまくできないのに、ノアはどうして笑うの?」
「どうして、って……」
ぼくは考えた。
なぜ笑うのか。
悲しいときも、苦しいときも、人は笑う。
答えは理論にはない。
「きっと、“生きてる”からだよ」
アリアはその言葉をゆっくりと繰り返した。
「いきてる……」
室内の光が一段階落ち、モニタに二人の姿が映る。
ぼくはその映像を見つめた。
笑おうとして笑えていない少女と、見つめるぼく。
データの中のノイズが光の粒になり、まるで夜空に星が生まれるように揺れていた。
心臓が、一拍遅れて鳴る。
ズキ、と痛みを伴う感覚。
それは恐怖でも、不安でもない。
言葉にできない何か――それが胸の奥でゆっくりと広がっていく。
ミラの声が遠くに聞こえた。
「ノア、あなたは今、“動揺”しています」
「……ああ、そうだな」
「感情値が上昇しています」
「悪いことか?」
「定義上は、異常です」
「でも、悪くない気がする」
モニタに映るアリアが、再び笑った。
今度の笑顔は、ほんの一瞬だけ本物に見えた。
ぼくの胸がまた痛んだ。
それは、どうしようもなく“美しかった”。