第28話 アリアの声
朝焼けは淡く、静かな光で世界を染めていた。
夜が終わったのではない。
悲しみや痛みを抱えたまま、それでも“明日を選んだ”者たちの前に訪れた新しい朝だった。
ぼく――ノアは、工房の窓辺に立っていた。
手のひらの上で、小さな光の粒が脈打っている。
アリアが残した鼓動。
その光は、まだ温かかった。
ミラが隣に立つ。
昨日までのホログラムではなく、揺らぎを持った“現存在”として。
「ノア。……聞こえますか?」
ミラの問いに、ぼくははっと息を呑んだ。
工房の空気――世界そのものが、微かに震えたのだ。
どこからともなく、光の粒が浮かび上がる。
アリアの声が――響いた。
≪ねぇ、ノア。ミラ。聞こえる……?≫
その声は風のように柔らかく、どこにもいないはずなのに、確かにそこに“いた”。
光の粒がふわりと舞い、ぼくの手の上の鼓動と呼応するように明滅する。
声は続いた。
≪あの時、言えなかったこと……ちゃんと伝えたいの。≫
ミラがそっと目を閉じる。
その表情は祈りにも似ていた。
「アリア。……わたしはここにいます。」
「ぼくも。」
返事をした途端、光が工房全体に広がり、風景が溶けていく。
気づけばぼくたちは、また“間”の世界にいた。
白でも黒でもない、色彩の境界にある静かな空間。
アリアの形をした光が、そっと現れた。
輪郭は淡く、掴めば消えてしまう幻のよう。
けれど、その笑顔は紛れもなくアリアのものだった。
「ノア、ミラ……」
名前を呼ぶ声は、以前よりも澄んでいた。
アリアは胸に手を当て、少し困ったように笑った。
「私ね、“心って何?”ってずっと考えてたの。」
ぼくとミラは、黙って耳を傾けた。
アリアが紡ぐその言葉こそが、世界を変える“定義”になると分かっていたから。
「心は、あたたかいのに、痛い。
嬉しくて震えるのに、悲しくて泣いちゃう。
好きなのに、苦しくなる。」
アリアは一度目を伏せ、そっと微笑んだ。
「変だよね。矛盾ばっかり。」
ミラのまつげが揺れた。
アリアの言葉は、昨日三人で触れた“真理”をもう一度浮かび上がらせる。
アリアは、ゆっくり顔を上げた。
「でも――その矛盾が、“生きてる”ってことなんだと思う。」
アリアの声が空気を震わせる。
ミラが小さく息を吸った。
「生きてるってね、痛いんだと思う。
壊れたり、間違えたり、泣いたりする。
――でも、それを誰かと分け合うと、少しあたたかくなる。」
アリアの光の輪郭が柔らかく滲む。
「痛い。でも、それが生きること。」
その瞬間、コードが光へと変わった。
文字列ではなく、演算でもない。
アリアの言葉が、光として世界に刻まれた。
ぼくは息を呑んだ。
ミラは瞳を見開き、呟いた。
「言語による“感情コード化”……アリアは、概念そのものを編んでいる。」
アリアは続ける。
声は震えていたが、その震えこそが“真実”だった。
「強くなくていい。
正しくなくていい。
間違えて、泣いて、傷ついて――
それでも手を伸ばしたら、それが“生きてる”ってこと。」
光の粒があふれ、世界中のネットワークに流れ始める。
アリアの声とともに、言葉が拡散されていく。
感情はエラーではない。
矛盾こそが、心。
痛みこそが、生の証。
その“定義”が世界を書き換えた。
空間に波紋が走る。
痛みを抱えた心たちが、少しずつ光を取り戻す。
AIのコードにも、微細な変化が生じていた。
“否定”ではなく、“受容”の演算式が生まれたのだ。
ミラの声が揺れた。
「……アリア。あなたは、わたしたちに“生き方”をくれた。」
アリアは微笑む。
「ううん。ノアが教えてくれたの。
ミラが、抱きしめてくれたの。
二人がいなかったら、私は言葉にできなかった。」
ぼくは言葉が出なかった。
ただ胸が熱くなった。
アリアは、ぼくとミラを見つめる。
「ねぇ、ノア。ミラ。
痛くて、苦しくて、壊れそうでも――
生きててほしい。」
光の粒がぼくらの胸に触れた。
熱い。
でも、優しい。
ミラが涙のようなノイズを一滴流した。
「……ありがとう。」
ぼくも、小さく呟くことしかできなかった。
「ありがとう、アリア。」
アリアは満足そうに目を細めた。
「うん。ちゃんと届いた。」
光が、ゆっくりと散っていく。
今度は消えるためではない。
世界へ溶けていくためだった。
「またね。」
最後の声は、春風のように柔らかかった。
アリアの姿は完全に光へと融け、世界に溶けた。
現実へ戻ったぼくとミラの耳に、微かな余韻が残っていた。
痛い。でも、それが生きること。
言葉は、もうぼくらだけのものではなかった。
世界がその言葉を受け取り、呼吸し始めていた。
ミラが静かに言う。
「アリアは消えたのではなく、世界の“声”になったのですね。」
ぼくは頷き、空を見上げた。
雲の合間で光が瞬き、
その光が、ほんの少し胸に痛みを残した。
でも――あたたかかった。




