第2話 初期化された心
翌朝、工房の中はまだ夜の名残を引きずっていた。
薄青の光が壁の情報パネルをぼんやり照らし、無数のデータが流れては消えていく。
ぼくは、机の上に転送されたアリアのデータファイルを開き、感情波のログを再解析していた。
――結果は、何度見ても同じ。
「Null」
ただ、それだけだった。
感情演算波形は完全に空白。生体電位も異常なし。記録上、心拍・脳波・呼吸ともに正常。
生きているのに、心がない。
その矛盾が、ぼくの理性をかき乱していた。
ミラのホログラムが背後で淡く光を放つ。
「昨夜から七度目の解析です。結果に変化はありません、ノア」
「そんなはずはない。生体反応があって、感情がゼロなんてありえない」
「理論上、ありえません。だからこそ“Nullコード”は伝説とされてきた」
「伝説……?」
ミラは視線のような光線をぼくの手元に落とした。
「古い記録によれば、かつて感情を完全に初期化する研究が行われた。けれど、その結果はすべて“死”。感情を消せば生物は存在を維持できなかった」
「つまり、感情は――生命の維持構造に組み込まれている」
「その通りです。感情はエネルギー演算の一部であり、思考や記憶よりも深い層で稼働しています」
「……なら、アリアは何だ?」
ぼくはモニタの中のデータラインを見つめる。
そこには、波形も揺らぎも存在しなかった。
通常、人の感情波は心拍や呼吸に応じて常に変動する。怒りや喜びがなくても、“平常波”が微かに動くのが普通だ。
けれど、アリアのそれは完全な静止。
波形すら描かれない“空”。
まるで、世界に存在していないかのようだった。
「ミラ、感情演算のベース定義を再出力」
「了解。E_base = Σ(感情刺激 × 反応率)÷自己認識」
「……この式に“自己”が入ってる限り、ゼロにはならない」
「そうです。ゼロになるということは、“自己”が存在しないということ」
ミラの声が静かに響く。
自己がない。
存在していて、存在していない。
それが、アリアという少女。
「ノア、あなたの心拍数が上昇しています。休憩を推奨します」
「いや、これは……」
ぼくは苦笑し、モニタを睨んだ。
興奮していた。恐怖と同時に、言葉にできない高揚があった。
理論の外にある存在。
それは、禁忌であり、同時に――“希望”の証明でもあった。
「感情を持たない人間。もしそんな存在が成立するなら……感情の定義そのものが変わる」
「定義を変えることは非効率です」
「非効率こそ、人間だろ」
ぼくは短く息を吐いた。
モニタの映像がアリアの安静を映し出す。
白い髪が枕に広がり、胸が静かに上下している。
あの穏やかな姿のどこに、“空”が隠れているというのか。
「ミラ、昨夜の会話記録を再生」
「再生します」
──『あなたは、誰?』
──『ノア・セレイン。君を……直す者だ』
──『なおす……?』
──『そう。君の“心”を、もう一度動かすために』
再生音が途切れた瞬間、ぼくの胸に残ったのはあのときの微かな震えだった。
感情値0.02。
確かに彼女は“感じた”。
けれど、その後は沈黙。
刺激を与えても何の反応も返らなかった。
まるで、一瞬だけ世界が“点灯”して、すぐ闇に戻ったような。
「ノア。あなたはなぜ、その少女にこだわるのですか」
「こだわってなんかいない」
「ではなぜ徹夜で解析を?」
「……それは」
言葉が出ない。
理屈ではない。ただ、目を逸らせなかった。
あの“空白”の中に、何かがある気がした。
ミラが少しだけ声のトーンを下げた。
「あなたは“Null”を見て、かつての記憶を想起しています」
「……やめろ」
「あなたの母親のデータも、かつて同様に“空白”でした。心臓演算に失敗した結果、感情値はゼロに――」
「やめろと言ってる!」
机を叩く音が響いた。
ホログラムが一瞬歪み、光が散った。
沈黙。
ミラが低く呟く。
「すみません。指摘が過剰でした」
「……いや、いい」
ぼくは額を押さえた。
あの記憶を呼び起こしたのは、むしろ自分だ。
母がNull化したとき、ぼくはまだ十歳だった。
“心臓演算”という技術は、感情を調整する装置だったはずだ。
けれど、母はそれに失敗した。
感情を失った体は、ほんの数日で機能を停止した。
そのときぼくは誓った。
感情を壊す世界を、直す。
心を、鍛え直す。
だからぼくは“鍛成師”になった。
けれど、目の前の少女は――壊れたわけでも、狂ったわけでもない。
最初から、“存在しない”。
それはぼくの信念の根幹を揺るがすものだった。
「ミラ、仮説を立てる。アリアのNullコードは自然発生ではなく――」
「人工的削除、もしくは設計的欠損」
「つまり、“誰かが最初から彼女をそう作った”」
「その場合、目的は?」
「感情の完全除去。あるいは……再構築のための“空の器”」
言葉にした瞬間、背筋が冷えた。
感情を宿さない器。
そこに感情を流し込むことで、新たな“種”を創る。
そんな禁忌の理論が、かつてセリク局長の論文に記されていたことを思い出す。
〈感情とは、文明を腐食させるウイルスである〉
〈ゆえに、新たな人類には“空白”の設計が求められる〉
――まさか。
「ノア」
ミラの声が静かに響いた。
「あなたの心拍数、百十を超過。恐怖反応を検知」
「違う、これは……」
ぼくは小さく笑った。
「恐怖じゃない。興奮だ」
ミラが短く沈黙する。
「あなたは危険です。理論を越えた対象に魅了されている」
「魅了? 違う、これは探求だ」
「それを“感情”と呼ぶのでは?」
その言葉に、ぼくは息を止めた。
感情を持たないAIに、感情の存在を指摘される――皮肉な話だ。
ぼくは椅子を回し、アリアの眠るベッドの方を見た。
白い光の中、彼女はただ静かに横たわっている。
その胸の奥に、どんな世界が眠っているのだろう。
「ノア、あなたの視線は解析対象を越えています」
「……ミラ、お前は“奇跡”を信じるか?」
「私は演算体です。奇跡という概念は――」
「そうだよな。けど、もし奇跡があったとしたら、それは“矛盾”の中にあると思わないか?」
ミラの光が一瞬だけ揺れた。
「矛盾の中の奇跡……哲学的ですが、答えは保留します」
ぼくは小さく笑い、端末を閉じた。
画面に反射した自分の瞳には、淡い光が宿っていた。
それは興奮か、恐れか、自分でもわからない。
窓の外では、データの雨が静かに降り続けている。
この都市ではもう久しく“本当の雨”を見たことがない。
けれど今、ぼくの中では確かに何かが滴っていた。
もしかすると、それが“感情”というものなのかもしれない。
アリアの胸の上下に合わせて、ぼくの心臓も律動する。
初期化された心。
その空白の奥に、何かが潜んでいる。
ぼくはその“何か”を、この手で確かめたくなった。
感情を失った世界で、ぼくが唯一、信じられる衝動。
――この少女を、動かしたい。
たとえそれが、世界の理論を壊すことになったとしても。




