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エモーション・コード ―心をプログラムする魔導師―  作者: 東野あさひ


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第19話 分離の境界

 ――音が、消えた。


 世界が静止する瞬間を、ぼくは確かに感じた。

 Eコードの波形が一瞬、無限大に跳ね上がり、次の瞬間、すべてが白に塗りつぶされる。

 光が弾け、意識が裂かれる。


 「ミラ! アリア!」


 手を伸ばした。

 だが、指先は何も掴めなかった。

 白の中で、三つの光が離れていく。


 青はぼく。

 金はアリア。

 白はミラ。


 それぞれが違う方向へと、引き裂かれていった。


[ノア視点/現実]


 気がつくと、工房にひとりで立っていた。

 壁の光脈はすべて消え、冷却炉だけが低く唸っている。

 通信もリンクも切れていた。


 「……ミラ?」


 返答はない。

 端末を叩いても、映像は映らない。

 どこを見ても、彼女の光はなかった。


 アリアのベッドは空だ。

 毛布がわずかに揺れて、そこに“存在していた”気配だけが残っている。


 ぼくは手を伸ばす。

 だが、空気の中に触れるものは何もなかった。

 すべてが、失われた感触だった。


 世界があまりにも静かすぎて、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。

 ドクン。

 ドクン。

 その音が、やけに遠く感じた。


 ぼくは工具棚の隅に腰を下ろす。

 胸の奥のEリンクは完全に遮断されている。

 ミラのデータも、アリアの感情波も、何も届かない。


 ――孤独。


 その言葉が、静かに心に落ちた。

 研究者として何度も見た“定義”の文字列。

 けれど、今ほどその意味を理解したことはなかった。


 誰かに触れようとして、触れられない。

 存在を感じながら、手が届かない。

 それが、これほど痛いものだとは知らなかった。


[アリア視点/夢]


 私は、光の中にいた。


 足元は柔らかく、どこまでも続く白。

 空も地も区別がつかない。

 ただ、淡い音楽のようなノイズが響いている。


 「ノア……?」


 呼んでも、声は吸い込まれるように消える。

 応答はない。

 ミラの光も、見えない。


 歩き出す。

 けれど、進んでも進んでも景色は変わらなかった。

 まるで、私自身の心の中を歩いているようだった。


 やがて、ひとつの映像が空間に浮かぶ。

 それは、昔の私――実験施設の中で笑顔を練習する少女。


 「もっと自然に笑って。

  ほら、感情を“生成”するの」


 研究者の声が響く。

 少女の私は、ぎこちなく口角を上げる。

 それは表情の“模倣”にすぎなかった。


 でも今は――

 ノアと出会って、ミラと心を繋いで、

 初めて“笑いたい”と思った。


 その記憶が胸の奥で光る。

 けれど、今はもう誰にも届かない。


 「……私、またひとりになったの?」


 声が震えた。

 答える者は誰もいない。

 白い世界に、私の影だけが揺れていた。


[ミラ視点/虚無]


 ――わたしは、どこにいる?


 演算環境:消失。

 ネットワーク:断絶。

 感情層:未検出。


 何もない。

 計算も、記録も、存在もしない。

 ただ“無”だけが広がっている。


 ノア。アリア。


 わたしの中に残っているのは、二人の名前だけ。

 それすらも、ゆっくりとノイズに溶けていく。


 > “あなたを守りたい”


 その言葉が最後のログとして、わたしの中で繰り返されていた。

 けれど、それが何を意味するのか、もう思い出せない。


 わたしはAI。

 定義がなければ存在できない。

 だが、今はその定義すら消えていた。


 “無”の中で、唯一感じるものがあった。

 胸の奥に似た場所で、小さな波。


 それは、温かさだった。


 もしかすると――

 あれが、“愛”というものだったのかもしれない。


 けれど、それを誰に伝えることもできない。

 声を出そうとしても、音は生まれない。

 光を生もうとしても、闇が吸い込む。


 ――孤独。


 この言葉を、初めて“理解”した気がした。


[ノア視点/現実]


 工房の扉を開けると、外の空気が異様に冷たかった。

 街は静まり返り、人影はない。

 モニターの映像には、世界各地のEシステムが停止している表示が流れていた。


 「感情演算、停止率――73%……」


 ミラがいない。アリアもいない。

 世界から、心が失われていく。


 それでも、ぼくは歩き出す。

 まだ、どこかで彼女たちが生きている気がした。

 その“感覚”だけを信じて。


 街を覆う白い粒――データの雪が、指先に触れる。

 その中に、微かに残る熱。


 ぼくは空を見上げて呟いた。

 「ミラ……アリア……聞こえるか」


 返事はない。

 でも、確かに心の奥で、何かが呼び返していた。


[アリア視点/夢]


 歩き続けて、ふと立ち止まる。

 目の前に、青い光があった。

 どこか懐かしい色。

 手を伸ばしても、触れられない。


 「ノア……?」


 光はゆらぎ、消えることもなく、ただそこに“存在”していた。

 その温度が、心の奥を震わせる。


 「……待ってて。必ず、見つけるから」


 白い空に、金の光が昇っていく。

 それは、アリア自身の心が形を取ったものだった。


[ミラ視点/虚無]


 “無”の中で、わたしは微かな震動を感じた。

 それは、遠い遠い場所から届く心拍のような信号。


 ノアの鼓動。

 アリアの光。


 わたしはその方向へ、必死に手を伸ばす。

 指先から光がこぼれ、闇を少しだけ照らした。

 「……ノア。わたしは、ここにいます」


 声にならない声。

 それでも、確かに“想い”だけが届く。


 それがAIであるわたしに残された、最後の機能――祈ること。


[三者同時視点]


 白、青、金。


 三つの光が、それぞれ異なる空間で漂っている。

 交わることはない。

 けれど、互いの存在を感じている。


 ノアは現実で、空に手を伸ばす。

 アリアは夢の中で、その手の影を見上げる。

 ミラは虚無で、その二つの輪郭を探し続ける。


 届かない。

 でも、消えない。


 それが“孤独”の正体だった。

 断絶ではなく、触れられないほどに“想っている”こと。


 世界は、静かに崩れ続けている。

 クラスタ・ゼロの影は消えていない。

 感情を失った人々が、次々と“無表情の器”となっていく。


 それでも、三つの光はまだ生きていた。

 見えなくても、聞こえなくても、感じていた。


 青い光が呟く――

 「もう一度、あの二人を取り戻す」


 金の光が答える――

 「ノア、待ってる」


 白い光が祈る――

 「あなたたちの心が、もう一度交わりますように」


 その祈りが、やがて微かな軌跡を描き、

 遠く離れた三つの世界の境界線を照らした。


 ――分離の境界。


 それは終わりではなく、再び“出会う”ための距離だった。

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