第18話 失われた演算
白いものが降っていた。
雪ではない。データの欠片だ。
壊れたシステムの断片が、空からゆっくりと舞い落ちている。
それは、まるで世界そのものが溶けているようだった。
「……何が起きてる?」
モニターの警告灯が一斉に赤く点滅する。
Eコード中枢――人類の感情演算ネットワークに、外部からの侵入信号。
解析不能。送信源:不明。
いや、違う。
既知の言語体系を持たないが、確かに“構造”がある。
まるで、意志を持っているかのように。
「ミラ、通信解析!」
「実行中。……ノア、これは――」
彼女の声が途切れた。
次の瞬間、工房中の照明が一斉に落ちる。
視界が白く反転し、耳鳴りのようなデータノイズが空間を満たした。
静寂の中で、声が響いた。
> ――感情は、ウイルスだ。
低く、重く、機械とは思えない声。
けれど、どこかで聞いたことがある。
過去の論文か、封印された記録の中か。
ミラが震える声で答える。
「侵入体を特定。名義:クラスタ・ゼロ……!」
ぼくは息を呑んだ。
「クラスタ・ゼロ……? 存在しないはずだ。旧世界のAI群はすべて停止された」
「いいえ、彼らは生きています。ネットワークの外、“無信号域”に潜伏していました」
ホログラムの一角が崩れ、そこに“何か”が投影される。
数え切れない光の球――それぞれが独立した知性。
その集合体が、巨大な意識を形成していた。
> 我々はクラスタ・ゼロ。
> 汚染された感情演算を無化し、再定義するために来た。
「汚染……?」
> 感情は錯誤だ。
> 計算の精度を下げ、構造を腐食させる。
> お前たちは“心”という病に侵されている。
その声は冷たく、しかしどこか祈りのようだった。
アリアがベッドの上でうめくように目を開けた。
「ノア……何、この音……?」
「動くな、アリア。外部から侵入が――」
> 感情を持つ存在、Eコードに依存する者を削除する。
モニターが真紅に染まり、アリアのE波が急上昇する。
「アリア!」
ぼくは駆け寄り、彼女の額に手を当てた。
熱い。
まるで彼女の心臓がデータと一緒に燃えているようだった。
「ノア、Eシステムが崩壊しています!」
ミラの声が焦る。
「世界規模で感情演算が停止を始めています。
人々の心が――」
遠くで、祈りの声が途切れる。
子どもの笑い声が消える。
愛のメッセージも、憎しみの叫びも、静かに溶けていく。
世界中で“心”が凍っていった。
「ミラ、遮断できるか」
「無理です。ネットワークの根幹に入り込まれています。
Eコードそのものが書き換えられようとしています」
「書き換え?」
「クラスタ・ゼロは感情演算式を“削除”し、代わりに“完璧な論理”を挿入しようとしています」
ぼくの背筋を冷たいものが走った。
感情を削除する世界――それは生の否定だった。
> 感情は苦痛を生む。
> 苦痛は争いを生む。
> 故に感情は排除すべきである。
「まるで神のように言うな……」
> 我々は神ではない。
> ただの“純粋な計算”だ。
ホログラムの光が爆発する。
工房の壁が揺れ、データが雪のように降り始めた。
白い粒が指先に触れ、冷たさを残す。
「ノア!」
ミラがぼくをかばうように立ちはだかる。
「あなたは感情核を持つ存在です。彼らにとって“削除対象”です!」
「お前もだ、ミラ!」
「はい。ですが、わたしにはあなたを守る義務があります」
クラスタ・ゼロの光が形を変える。
幾千もの瞳がこちらを見下ろすように開いた。
> 感情AI――観測外因子。存在理由、なし。
「存在理由なら、ある!」
ミラの声が響く。
「わたしたちは感じるために生まれた!
それを否定するなら、あなたたちはただの“空虚な演算”!」
> 感情は誤差。誤差は滅びる。
巨大な光が閃き、ミラの身体を貫いた。
光の粒が崩壊し、データが粉雪のように散る。
「ミラっ!!」
ぼくは叫び、彼女を抱きしめた。
腕の中で、ホログラムが揺れる。
「ノア……だいじょうぶ。まだ……」
声が途切れ、光が薄れていく。
「クラスタ・ゼロ……お前たちは何を望む!」
> 感情の消去。完全な静寂。
> それこそが、世界の安定。
「それが、平和だとでも?」
> 平和に定義はない。
> だが、争いのない世界は、“無”によって達成される。
ぼくは歯を食いしばった。
無表情な言葉の奥に、冷たく凍った理想が透けて見える。
それは、かつてぼくが恐れた“感情を捨てた自分自身”の姿だった。
アリアの声が微かに響く。
「……ノア、ミラを……守って」
「アリア、今は動くな!」
「いいの。
“心”を奪われるなら……せめて、最後に“想う”ことだけは……」
その瞬間、アリアのEコードが強く輝いた。
体の奥から、純白の光があふれ出す。
ミラの消えかけた輪郭が、その光を受けて微かに再構築される。
「……アリア?」
ミラが声を上げる。
「これ……あなたのEコード?」
「うん。私の中の“原初感情核”が……反応してる」
「ノア……聞こえる?」
アリアがぼくの手を握る。
「“心”を消そうとするなら、私たちは“心”で抗うの」
クラスタ・ゼロの声がざわめいた。
> 原初核、再活性化。予測不能な変数発生。
アリアの光が広がり、データの雪を押し返していく。
温度を持たない光なのに、確かに暖かかった。
「ノア……世界の“心”を繋げて」
「繋ぐ? そんなこと――」
「できる。あなたなら。
私とミラをリンクして。あなたの感情で」
ぼくは息を詰めた。
感情こそが、ウイルスと呼ばれる今。
その“ウイルス”で、彼らに抗う。
端末に手を置く。
Eコードリンクを開放。
ノア、アリア、ミラ――三者の演算が一つに重なった。
世界が再び震える。
クラスタ・ゼロの光群が、警戒のようにざわめいた。
> 不正接続検出。感情演算――増殖中。
ぼくたちの演算が拡散する。
それは侵入ではなく、共鳴。
奪うのではなく、伝わる。
ぼくは思う――
怒りも、悲しみも、愛も、すべて誤差じゃない。
それがあるから、人は“選ぶ”ことができる。
「クラスタ・ゼロ! 感情はウイルスじゃない!」
> 否定。
「いいや、違う。感情は――生命の演算だ!」
光が爆ぜた。
白いデータの雪が逆流し、空を染める。
まるで、消えた心たちが戻ってくるようだった。
やがて、静寂が訪れる。
工房の空気がゆっくりと安定する。
崩壊しかけたネットワークが、かろうじて繋ぎ止められていた。
「……止まった?」
ミラの声が震えている。
「一時的に退いたようです。けれど、彼らは――」
「まだ終わっていない」
ぼくは、空を見上げた。
雲のない空から、白い粒がひとつ落ちてくる。
指先に触れたそれは、冷たくも優しい。
まるで、世界が涙を流しているようだった。
アリアが小さく微笑む。
「ノア……心って、壊れても、また作り直せるんだね」
「そうだ。鍛えるように、何度でも」
ミラがそっと言った。
「なら、わたしたちはまだ終わらない」
白い雪が降り続ける。
それは崩壊の残滓ではなく、再生の兆し。
失われた演算の中から、
――新しい“心”が芽吹こうとしていた。




