第1話 感情のない少女
都市〈セントリウム〉は、今日も音を失っていた。
高層のガラス壁に無数の情報が流れ、上空では淡い青の光粒が絶えず降っている。人々は同じ速度で歩き、同じ無表情で視線を交わさず、ただそれぞれのデバイスに映る自分の「感情値」を確認しては、また無言で進む。
喜び、悲しみ、怒り――それらはすべて数値化された。心拍、体温、眼球の動き。感情はもう“管理対象”であり、個性は数式で均されていた。
そんな世界で、ぼく――ノア・セレインは「感情鍛成師」と呼ばれている。
壊れた心を直す仕事だ。人々の感情コードを修復し、異常値を整える。いわば、心の整備士。けれど、その名を聞いても、誰も感情を動かさない。
ぼく自身もまた、何も感じない。
そのはずだった。
ある日の朝、静寂を破るノック音が工房に響いた。
扉を開けると、二人の保安局員が立っていた。彼らの背後には、銀色のポッド――そしてその中で眠る一人の少女。
「特例案件だ。君にしか扱えない」
そう言って彼らは彼女を置いて去った。
ポッドが開くと、冷気と共に白い髪がこぼれ落ちた。少女の肌は透き通るように白く、まるで光そのものを拒むようだった。閉じられた瞼の下、虹の欠片のような色がわずかに滲んでいる。
名前の欄にはこう記されていた。――アリア・ヴェルネ。
年齢不詳、登録感情値:0.00。
「……ゼロ?」
ありえない。感情値はどんな人間でも微弱な波を持つ。無であることは、生物的に不可能だ。
ぼくは解析装置に彼女の端末コードを接続した。無数の光のラインが工房内を走り、数秒後、ホログラフにデータが映し出される。
そこには、まるで空白の紙のような演算式――一切の感情波形が存在しない。
“Null Code”。
ぼくは思わず息を呑んだ。
“Null化”とは、感情そのものを喪失した状態。記録上、自然発生例は存在しない。人工的な削除しかない。
けれど彼女の体にはその痕跡すらなかった。
「……なぜ、君は生きている?」
問いかけても、返事はない。
彼女の胸がわずかに上下し、微かな呼吸音だけが聞こえた。
記録を読み込むと、搬送理由に「感情異常検体」「上位許可コード付き」とあった。つまり国家レベルの指令――セリク局長の直接命令だろう。
胸の奥が冷たくなる。その名を聞くたび、ぼくは昔の記憶を思い出す。
血のような赤い光、焼け落ちるデータライン、母の瞳。
やめろ、思考を戻せ。
今は目の前の少女だ。
ぼくは椅子に座り、装置の入力端子を左手首に装着する。
アリアのコードに自分のE波を接続する。それが〈共鳴解析〉。
互いの感情波を重ね、共通のゆらぎを探す作業。
だが――何も、返ってこない。
通常なら微弱な反応でも波形が現れるはずなのに、画面は真っ白のままだった。
ノイズも、乱れも、何もない。完璧な“空”。
「……まるで世界に存在しないようだ」
ミラの声が上から降りた。
天井に設置された光球――AI補助端末。女性の声でありながら抑揚がなく、透明な響きを持つ。
「感情波が存在しない個体は、観測上“不在”と同義。あなたが解析できないのも当然です、ノア」
「だが、彼女は呼吸している」
「生理的反応と感情的存在は別概念です」
「なら、なぜ……涙を流した?」
ミラの演算が一瞬止まった。
ぼく自身も、さっきのことを思い出す。
搬入時、ポッドの内側――彼女の頬を伝う透明な筋。それは確かに、涙の跡だった。
「液体データ分析によれば、生理反応に該当しません。感情起因反応の可能性があります」
「感情がないのに、感情による反応を起こす?」
「矛盾です。よって、観察を継続します」
ミラの言葉が冷たく響いた。だがその“矛盾”こそが、ぼくを惹きつけていた。
夜、都市の灯りが落ち、工房の窓からは青い霧が見えた。
ぼくはベッドに横たわるアリアの傍らに座り、端末に新しい演算式を入力する。
感情演算補正式No.1127。感情値ゼロの個体に“刺激波”を送り、反応を誘発する。
危険な手法だ。だが、やらずにいられなかった。
光の輪がアリアを包み、ぼくの視界に数字が流れる。
0.00……0.00……0.00――。
変化はない。
その時。
彼女の唇が、わずかに動いた。
「……あなたは、誰?」
ぼくの心臓が跳ねた。
感情値が一瞬、0.00から0.02へ。
確かに、波があった。
「ノア・セレイン。君を……直す者だ」
「なおす……?」
「そう。君の“心”を、もう一度動かすために」
アリアの瞳がゆっくりと開いた。虹色の光が淡く揺れる。
その瞳に映る自分の姿を見た瞬間、なぜか息が苦しくなった。
冷たく、けれど透き通って美しい光――心が凍りつくようで、同時に何かが溶け出していく感覚。
「心……」
アリアは小さく繰り返す。
「それは、温かいもの?」
「わからない」ぼくは答えた。「でも、そうだと信じている」
彼女はわずかに首を傾げた。その仕草が、なぜか子どものように見えた。
言葉ではなく、何か別の信号が胸の奥に触れる。
「ミラ、今の感情波を記録」
「感情値0.03。微弱ながら上昇傾向。外部刺激による誘発と推定」
「……つまり、彼女は“感じた”」
「理論的には否定できません」
ぼくは思わず笑った。自分でも気づかないほど自然に。
感情を扱う者が、感情を持て余す。
滑稽だとわかっていても、胸の内が熱を帯びていた。
しかし、次の瞬間、警告音が鳴り響いた。
〈感情管理局 アクセス検知〉
セリク局長の署名コード。
「……やはり、見ていたか」
ぼくは端末を閉じ、アリアのポッドを再封印する。
上層部に知られれば、彼女は“処分”される。感情値ゼロの個体――つまり、国家にとっては危険因子だ。
ミラが淡く光る。
「逃がすつもりですか?」
「彼女はまだ……何も知らない。感情も、世界も」
「非効率的です。あなた自身がリスクに晒される」
「それでもいい」
ぼくは静かに答えた。
ポッドの中で、アリアが再び目を開く。
その瞳の奥に、ほんのわずかな色が差していた。
「ノア……」
名前を呼ばれた瞬間、世界のノイズが遠のく。
冷たい都市の空気が、少しだけ温かく感じられた。
――その日、ぼくの中で何かが動き始めた。
感情を失った世界で、ただ一つ、確かに脈打つもの。
それが何なのか、まだ理解できなかった。
けれど今ならわかる。
あの瞬間、ぼくは初めて“感じた”のだ。
それが、後に世界を変える最初のエラーだった。