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第9話「王太子の土下座」

 朝、川は澄んで、導灯の芯は昨夜の仕事を忘れたふりをしていた。

 掲示板のいちばん上に三行が増える。


〈本日:王都使節来訪。

 “断罪訂正”の板読みと、王太子の謝意の儀。

 額ではなく、手順を前へ〉


 板の前には机が二つ、白布、秤、相場竿、光箱。土下座枠の白線は薄く引き直され、角がやわらかい。

 老人が杖で石を二度叩く。

「今日の騒ぎは短く、仕事は長く」


 午前、埃を巻いて王都使節が着いた。旗槍、金糸の肩章、靴は土に慣れていない。

 先頭に立つ若い男が兜を外す。額は白く、目はまっすぐ。

「王太子、リジオン・ヴェイル。——ここでの手順に従う」

 輪がざわめき、すぐに落ち着く。

 俺は板を指し示す。

「板読みから」


 女官が巻紙を開き、先に定めた三行を読む。

〈断罪は一部誤り/根拠に不備/撤回する〉

 その下へ、王都広報院の正式訂正が重なる。比喩は抜かれ、骨だけだ。

 王太子は頷き、印章を押した。インクが木目に沁み、剥がれない文になる。


 次に、謝意の儀。

 土下座枠の前に王太子が立つ。靴を脱ぎ、白線をひとつ跨ぐ。

 俺は白板に短く書き出す。


 1)事実受領

 2)回復の確定(返金・名誉)

 3)再発防止の手順

 4)謝意の歌

 5)完了印


 王太子は深く息を吐いた。

「事実、受け取る。断罪は誤りであった。名誉を奪った。王都の手順が遅れた」

 言い訳を探す声ではない。輪が少し息を吐く。

「回復は——」

 エリスが一歩出る。葡萄色の裾が揺れ、顔は静かだ。

「私は、学寮の監査講義の講師としての資格と、報告書の署名権の回復を求めます。加えて、断罪放送の同時刻・同尺での訂正放送」

 王太子は頷く。

「承認する。明日、王都から板読みと同時に放送を行う。署名権は今、この場で再付与する」

 女官が金縁の小冊を差し出し、エリスの指に宿る。輪から小さな拍手が漏れて、すぐ止む。儀は進む。


「再発防止」

 王太子は視線を板にやり、相場竿、光箱、歌簿をゆっくり見渡した。

「王都でも、光箱を置く。公金の昼の居場所を決め、夜は封蝋。底紙で軌跡を残す。

 広報院の文は先に骨三行に削り、板に読み、歌にする。

 “臨時”は、誰かの恒例にならないよう、全て歌と数字で審査する」

 カナが指を鳴らして拍を置く。

「歌にして」


 王太子は喉を鳴らし、言葉を探し、見つけた。

 —「板で読み、歌で繋ぐ。

  夜の金には封をして、

  臨時は風へ吊るして視る」

 拙い。だが歌になった。

 俺は頷き、完了印の蜜蝋を薄く溶かす。

「最後に、謝意」


 王太子は白線の内側で一礼した。

 額は地に付けない。形ではなく順序が前に出ているからだ。

「謝意を、ここでの手順に」

 蜜蝋の封が落ち、板の端に完了印が沈む。


 その時、輪の外で灰色の外套が一枚揺れた。

 灰宰相派の徴げ手が、最後の糸を引こうと声を張る。

「王太子は王太子だ! 地方の板の前で歌うなど、権威の失墜!」

 王太子は首だけで彼を見た。

「権威は、隠れているときに失墜する」

 輪が小さく笑い、すぐに静まる。

 俺は便宜竿の根本に薄い札を差し込む。

〈権威=可視化の責任/不可視の威圧=便宜〉

 札は風に合わない音を立て、子どもが眉をひそめる。

「やっぱり歌に合わないや」


 返金と補償が続く。

 光箱の封を割り、印紙と現金が流れる。

 王太子は列の端で立ち、各々の痩せに耳を傾け、必要なら自ら労役を申し出た。

「王都の帳の整備に、君の方式を借りたい」

 老人が笑う。

「方式は板にある。借りるまでもない」


 昼、王都伝令が新しい封書を運んだ。封蝋は緋色、文は短い。

〈灰宰相、職務停止。私室照会の受理、裏棚封鎖の完了。次の市で“灰の財布”の残部回収〉

 輪が息を吐き、相場竿が一度だけ鳴る。

 会計係は白線の手前で立ち、静かに言った。

「——事実、受け取る。残りを返す。歌は……」

 —「灰の財布に鍵は要らぬ、光で箱に変わるから」

 彼は額を地に付けない。歌が嘘でなく、数字が板と合っているからだ。


 儀が終わるころ、王太子は板の前で立ち尽くし、相場竿と歌簿を順にめくった。

「これが国の骨か」

「骨は見えている時に強い」

 俺が言うと、彼はゆっくり頷いた。

「君は——何者だ」

 柄頭印を掌で転がし、柄に嵌め直す。

「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」

 彼はすこし笑い、すぐ真顔に戻る。

「王都に、順序を持ち帰る」


 そのとき、エリスが一歩出た。葡萄色の裾が光を拾う。

「殿下。土下座の手順は、王都でも同じにしてください。

 恥は私刑ではなく、作業です」

 王太子はうなずいた。

「作業なら、繰り返せる」


 広場の端、灰色の外套がもう一度だけ揺れた。

 “徴げ手”が、板の前に出て、言葉を飲み込み、白線の外で短く頭を下げた。

 土は冷たい。だが額は地に付かない。

 王都の風がこの村に追いついたのではない。この村の手順に、王都が追いついたのだ。


 夕刻、導灯が点り、川面が金の糸で縫われる。

 子どもが歌を一行足した。

 —「偉い人でも歌を持て、板の前では皆が読み手」

 老人が低く追い、輪が短く笑う。


 王太子は帰り支度を整え、馬に手綱を掛けた。

「明日、王都で同尺の訂正を流す。板で読む。

 それと——」

「それと?」

「王都にも民会を開く。歌は下手でも、歌う」

 カナが肩をすくめる。

「下手な歌は、よく覚えられる」


 王太子の一行が去り、夕風が板を撫でた。

 エリスが焚き火のそばで静かに言う。

「今日、あなたは“裏天皇”として何をしたの?」

「何もしなかった。順序が勝手に働くように、掃除しただけだ」

 彼女は目だけで笑った。

「それが、いちばん手間がかかる」


 光箱は封じられ、歌簿は紐で束ねられ、相場竿は札を外して眠る。

 蜂が一匹、遅れて巣に戻り、夜は深くなる。

 静けさは、今日も少し戻った。戻るたびに、ざまぁは静かになっていく。


 翌朝の掲示は、こうなる。


〈明日:スローの定義を更新する。

 畑・灯り・歌・板——日常を国家標準に。

 “表はスロー、裏は順序”で続ける〉


——次話予告:「スローの定義を更新する」

(暮らしの速度を、国の標準に合わせるのではなく、国の標準を暮らしの速度に合わせる)

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