第8話「公開監査、そして静かなざまぁ」
三日が過ぎた。導灯の芯は新しく、光箱の封は昨日より薄く均一だ。
掲示板のいちばん上に、太字で三行。
〈本日:続・公開監査。
会計係より数字提出——歌にもする。
返金・補償・再発防止、板の前で確定〉
相場竿の札は静かに揺れ、歌簿は紐で束ねられて机の上。秤の皿は磨いた。底紙は焚き火の上で乾いている。雑音は少ない。静けさは準備の音をよく通す。
鐘が一つ鳴り、輪が締まる。
灰宰相派の会計係が現れた。外套は同じだが、目が違う。眠れなかった目だ。
机の前で立ち止まり、革の帳簿と薄い木箱を置いた。
「……数字を、持ってきた」
老人が杖で石を一度叩く。
「受け取る」
最初に開くのは支出の内訳。
行は真面目に並び、ところどころに便宜が黒い点で浮いている。
「便宜=歌えない支出、不可」——板の札が光を返す。
会計係は乾いた唇を舐め、指で行を辿る。
「便宜は、三項目に分解できる。護衛追加費、印章“迅速”手数料、上納“儀礼”……名前は曖昧だが、数字はある。護衛追加費は実人数と時間で出せる。印章迅速は存在しない窓口に払っていた。儀礼は——名前が、ない」
輪がざわつく。
カナが拍をひとつ打ち、落ち着かせる。
「歌に」
会計係は短く息を吸い、諦めた顔で口を開いた。
—「護衛は昼と夜で数が違う、印章急ぐ窓は影だった。
儀礼は名なき手に消え、歌えぬ分は板に落ち」
歌は拙い。だが歌になった。
俺は頷き、三行で骨を板に写す。
〈護衛=必要、人数×時間で上限/迅速手数料=廃止/儀礼=不可〉
次に、木箱の蓋を開く。中は硬貨と印紙、そして封蝋の予備。
「これが“灰の財布”の一部だ」
会計係の声は低く、観念した石の重さ。
「箱は三つある。これは“市につながる箱”。もう一つは関所北二の裏棚。最後は——王都の私室」
輪が静かに息を呑む。名前は出ないが、地点は出た。地図ができる。
カイトは今日ここにいない。王都で無効通達の無効を確定させている。
だから代わりに、底紙が喋る。
昨日までの底紙を三枚重ね、焚き火にかざす。褐色の軌跡が重なり合い、三本の太い流れが浮かんだ。
川と違って、金の流れは上へも登る。
「昼の金はここ。夜の金は北二の裏棚、そして……」
エリスが指で線を追い、相場竿の影を跨いで板の右上を示した。
「王都の“私室”へ」
会計係は目を閉じ、言葉を選ぶ。
「名前は、今は言えない」
「なら、手順で囲む」
俺は白木の札を三枚打つ。
〈裏棚→封鎖・開封は板の前/私室→監査立会の照会・受領は光箱へ/護衛→人数・時間で上限〉
老人が杖を二度叩く。
「照会状、歌にして流せ」
カナが四拍子。
—「裏棚閉めて鍵は二、私室照らす光箱。
護衛は人と時で足し、名なき儀礼は名なしへ返す」
輪がすぐ拾い、子どもが追い、歌簿に書き写す。
歌は、矢文だ。耳に刺さって抜けにくい。
返金に入る。
光箱の封を割り、印紙と現金を取り出す。
会計係は額を白線の外に置き、淡々と列の先頭に立った。
「受け取り側へ、差額+遅延+手戻りを返す。不足が出たら、私の労役で埋める」
「労役の内容」
「帳の整理、印の検査、歌の写し」
輪が一瞬笑い、すぐ真顔に戻る。
「歌の写しは重要だ」
エリスが頷く。
「“歌は物差しの影”。影を薄くする役だもの」
昼前、王都から使いが来た。金糸の肩章、顔は硬い。
「王都歳入役所、監査官補のラウル。公文改めの最終確認に来た」
彼は光箱、底紙、歌簿、帳簿を順に見て、短く息を吐く。
「……手順が、王都より王都だ」
そして懐から封書を出した。封蝋は深い緋色。
「王太子殿下より。中間上奏の返書だ」
エリスが受け取り、俺へ目だけで促す。
封を割る。文は端正で、余計な比喩がない。
〈地方の公開監査は、暫定だが承認する。
越権の定義は、板での可視化を妨げる時にのみ成立する。
——この返書も、板で読め〉
輪がどよめき、すぐに静かになる。
俺は三行で板に写す。
〈監査=承認/越権=可視化の妨害/返書=板で読む〉
その瞬間、灰宰相派の徴げ手が、最後の賭けに出た。
「ならば買い占めだ。今日の市は閉じる。王都の命だ」
言葉は刃だ。だが、鞘がない。
相場竿の横で、俺は逆流札を上まで押し上げた。
〈ただいまより臨時市。基準値±一で販売。一人一枚。歌簿に記録〉
老人が杖を二度叩く。
「臨時は誰かの恒例、だが、市は皆の恒例だ」
輪が動く。列ができる。
徴げ手は手を伸ばすが、札に名前を書くところで手が止まる。
名前は光を呼ぶ。光は便宜を嫌う。
買い占めの刃が空を切ったところへ、第二の刃物なき打撃が来た。
監査官補ラウルが、淡々と告げる。
「王都より通達。港北倉の印章、再発行を准許。裏棚封鎖を承認。私室照会を受理」
会計係の肩が落ちる。
俺は板の右端に、順序の終点を描いた。
〈封鎖→照会→受領→返金→再発防止→完了印〉
そして、最後の仕上げ。
「ざまぁは静かに」
声に出したのは、エリスだった。葡萄色の裾が揺れる。
「恥は私刑にせず、手順で可視化する。だから、ここでやるのは——公開監査の読み上げと完了印」
白線の四角の中、会計係が膝を折り、額を——地に付けない。
声だけが低く、はっきりと届く。
「事実、受け取る。返すべきを返し、二度と混ぜない。
歌は——」
—「便宜の札は風に鳴る、歌にならない支出は落ちる。
光の箱から道が伸び、影の財布は箱になる」
不格好だが、歌になった。
俺は頷き、光箱の封蝋を小さく落とし、帳の余白に完了印を押す。
輪から拍手が起き、すぐに静まり、風だけが板を撫でる。
静かなざまぁは、こうして終わる。誰も潰さず、仕組みだけが更新される。
午後、返金列は短くなり、歌簿は一冊分厚くなる。
子どもが板の隅で、今日の三行を指でなぞった。
〈監査=承認/越権=可視化の妨害/返書=板で読む〉
「越権、むずかしい」
「むずかしい言葉は、場所で覚えるのがいい」
俺は板の真ん中を指差す。
「ここに出すことを、越権は嫌がる」
子どもはうなずき、歌を一行足した。
—「越権は影で足を出す、板の前では靴を脱ぐ」
夕刻、ラウルが馬の腹帯を締めながら言う。
「王都は明日、正式通達を出す。広報院の断罪訂正も、板で読むのが筋と言うだろう。……それと」
「それと?」
「殿下が来る。頭を下げに」
輪が一瞬ざわめき、すぐに静まる。
老人が杖で石を軽く叩いた。
「頭の位置より、順序の位置だ」
エリスが横で、わずかに息を吐く。
「来てもらうなら、手順を渡す。額ではなく、法と板と歌で」
夜、導灯が七つから八つに増え、川面に縫い目が一本増えた。
ベックの油は安定し、港南の蝋はよく燃え、渡しの舟は静かに往復する。
光箱には薄い封。歌簿は焚き火のそばで温かい。
会計係は白線の前に立ち尽くし、やがて軽く会釈して去った。額は地に付けなかった——歌が嘘にならなかったからだ。
焚き火の赤が小さくなった頃、エリスが言った。
「“裏天皇”は、今日、何もしなかったように見えるわ」
「それが一番いい」
「どうして」
「手順が動いて、人が動いた。裏天皇がするのは、動線の掃除だけだ」
彼女は笑わず、目だけで笑って、焚き火に手をかざした。
「明日は、王太子の番ね」
「土下座の手順を、板で教えよう。額ではなく順序で」
蜂が一匹、導灯の光に触れてから巣へ戻る。
相場竿の札は夜風に一度鳴り、静かになる。
静けさは、今日も少し戻った。戻るたびに、ざまぁは静かになる。
翌朝の掲示は、こうなるだろう。
〈明日:王都使節来訪。
“断罪訂正”の板読みと、王太子の謝意の儀。
——額ではなく、手順を前へ〉
——次話予告:「王太子の土下座」
(額を下げるのは形、順序を下げるのは誠)