第7話「土下座の手順」
朝の空気は乾いて、導灯の煤が指先にまだ薄く残っていた。
掲示板はいまや壁のようで、そのいちばん上に大きな三行が増えている。
〈本日:公開監査。
歌簿/印簿/底紙/帳簿を重ね読みする。
恥は私刑にせず、手順で可視化〉
板の前に机を二つ並べ、白布をかける。脇に秤、相場竿、光箱。
広場の石畳には、薄い白線で四角が描かれている。そこが土下座枠——額を地に付けるためではない。謝罪と返済の完了印を押す場所だ。
土の上に、順序を置く。だから「土下座」。
老人が杖で石を二度叩き、開会を告げた。
「歌い手カナ、読み手多数、監査側は出納改めカイト——本日の立会を宣する」
カイトが短く会釈し、板の端にペン先を置いた。
「まず底紙」
光箱の昨日の底紙を焚き火にかざす。褐色の軌跡が立ち上がる。
昼に通った線は太く、夜に触れた指は途中で引っ込み、薄い影だけを残す。
「夜の開封は無し。命令は届いたが、手順に吸われて消えた」
輪が安堵で少しだけ息を吐く。
次は歌簿。
カナが束を開き、落札の歌、撤回の歌、臨時返金の歌を短く鳴らす。
—「断罪ひとつ誤りで、根拠の印が混ざってた。
板で読むから嘘は消え、撤回ここで印押す」
—「菜の花一反しぼって半、導灯三つで夜は満」
—「便宜は竿に吊って見よ、歌にならなきゃ値に入れず」
歌は約束の副本だ。数字が苦手な耳のための控え。
机の上へ、革の帳簿が置かれた。
灰宰相派の会計係が手を離すとき、指が一瞬だけ躊躇う。
「開示を」
カイトの声は淡々として、石畳に吸い込まれる。
会計係は綴じ紐を解き、ページをめくる。行は細かく、数字は真面目に並ぶ。途中から、目が泳ぐ。
俺は歌簿と合わせて角を揃え、同じ位置に指を置いた。
「ここ、“便宜”。支出理由の歌を」
会計係は口を開き、歌えない。
カナが四拍子を刻み、子どもが首を傾げる。
歌にならない支出は、値に入らない——板に貼られた札が光る。
老人が杖で石を叩いた。
「便宜項目、凍結。次の市で再審」
小さなざわめき。
灰宰相派の“徴げ手”が、腕を紙のように固く組む。
「土下座させたいのか」
「恥は順序で扱う」
俺は机の横の白板に、謝罪の手順を書いた。
1)事実受領:読み上げを遮らず**「受け取る」と言う。
2)痩せの確定:不足(金と物と時間)を板の前で数字にする。
(不足=差額+遅延による損+手戻りの労)
3)返し方の確定:現金/印紙/労役の組み合わせを選ぶ。
4)再発防止の歌:自分の口で短い歌にして板へ写す。
5)完了印:光箱の封蝋を受け、白線の内側で一礼**。
(額を土に付けるのは、歌が嘘だった時だけ)
輪が少しざわつき、すぐに落ち着く。
「土下座枠」は、膝と額の形を強制するためではない。形ではなく手順を求める枠だと分かれば、笑いは起きない。
最初に前へ出たのは、港北倉の書記だ。
塩の白い指で、胸の前に手を置く。
「事実、受け取る。底浸しは、手順ではなかった」
「痩せの数字」
「袋百二十、一袋あたり三分の一。合計四十。遅延三日」
カイトが計算を添え、板に写す。
「返し方」
「印紙二十、現金十、労役十。歌は——」
書記は一度だけ喉を鳴らし、低い声で短く歌った。
—「袋の底は水に付けるな、塩は泣いて重くなる」
子どもがすぐ拾い、輪の端で三人が口ずさむ。
俺は頷き、光箱から印紙を取り、蜜蝋を滴らせた封を渡す。
書記は白線の内側で一礼した。額は地につかない。十分だ。
歌が嘘なら、そのときは額が土を知る。
二人目は、関所北二の責任者。
肩章は煤け、目は固い。
「事実、受け取る。臨時加算は——口の命令だった。紙は、あと」
「痩せの数字」
「通行三百八十、一回あたり一。合計三百八十。遅延一月」
輪がざわめき、すぐに静かになる。
責任者は懐から小袋を出し、もう一度、口を開く。
「返し方。今ここで現金百。残りは印紙百八十、労役百。歌——」
—「臨時の口は紙になれ、紙は板で風にさらせ」
老人が杖で石を叩き、渡し守が頷く。
「風は嘘を嫌うからな」
責任者は白線の内側で深く一礼した。
膝が石に触れる音が小さく響き、誰も笑わない。
恥は道具だ。人を折るためではなく、順序を立て直すための。
そして、三人目。
灰宰相派の会計係。
外套は上等、香は薄い。
彼は机に指を置き、視線を定めて言う。
「……事実、受け取らない。便宜は必要経費で、歌は侮辱だ」
輪の空気が凍りかけ、すぐに暖まる。
カナが拍を刻む。
「歌は物差しの影。影が嫌なら光を増やす。数字でもいい」
会計係は沈黙し、革帳簿の角を強く握る。
エリスが、声を落として言った。
「必要経費なら、内訳を。材料、運搬、人件、誰の名前」
彼は顔を上げ、声を低くした。
「名前は出せない」
「では——歌」
会計係の喉が鳴り、言葉は出ない。
俺は板の左端に薄い線を引いた。
〈保留線〉
「受領を保留。三日。三日後、公開監査の続きで再度問う。歌でも数字でも、どちらでもいい。どちらも出せないなら——」
会計係の目に怒りが点り、やがて消えた。
「……額を、地に」
「それは歌が嘘だった時だ。今は嘘が出ていない。空白があるだけ」
輪が小さく呼吸を取り戻す。
土下座は罰ではない。嘘の現行犯にだけ用意する最後の手順だ。
昼の鐘の前、王都からの馬が一頭。汗がまだらで、背の男は細い。
肩章は金糸、封蝋は濃灰。
「王太子殿下の御内意——地方での公開監査は、王都へ先に上奏してからに」
カイトが封を割る。
文は長く、端正で、最後に一滴、毒がある。
〈秩序保持のため、地方は穏便に〉
俺は板の端に三行を載せる。
〈穏便=数字を隠すことではない。
歌と板が秩序を作る。
——秩序は、静けさの別名〉
男は困惑し、エリスを見て、俺を見て、輪を見た。
エリスは一礼し、短く告げる。
「殿下にお伝えください。土下座の手順を整えています——王都のために」
男はうなずくしかなかった。
午後、返金の列ができる。
印紙と現金と労役の組み合わせ。それぞれの額は板に写され、光箱は薄く光る。
秤の針は真ん中に戻り、相場竿の札は静かに揺れる。
会計係は列の端で立ち尽くし、やがて一歩、白線へ近づいて止まった。
保留線の前で、彼はかすれ声を出す。
「……三日で、数字を持ってくる」
俺は頷く。
「歌でもいい」
「……数字で」
「歌にもしよう。覚えるために」
彼は反射的に否定しかけ、しなかった。
人が覚えることは、権力にとっていちばん面倒だ。だからこそ、歌にする。
夕刻、公開監査の骨が板に残ったまま、導灯に火が入る。
老人が麦酒を半分渡し、カナが声を温める。
「土下座枠、今日も土と線のままだ」
「それでいい」
俺は柄頭印を掌で転がし、柄に嵌め直した。
「額を土に付けるのは、歌が嘘だった時だけだ」
「王都は、嘘をどうするかな」
「手順の外に逃がさない」
エリスが短く笑う。
「逃げ足の速い嘘は、踵が高いわ。板の節目に引っかかる」
その夜、川の道は五本に増え、灯りは星のように地上に降りた。
返金を受けた者が小さな歌を口ずさみ、子どもが相場竿の陰で拍を打つ。
会計係は帰らず、遠くから板を見ていた。保留線は細い。だが、逃げ道ではない。
焚き火の横、カイトが旅支度を整える。
「明朝、王都へ。無効通達の無効を確定する。……殿下にも、手順を渡す」
「渡す?」
「土下座の手順だ。額ではなく、順序を前に出すやり方を」
彼は笑わずに言い、手綱を捌いた。
「君は何者だ」
「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」
カイトは頷き、夜の端へ消えた。
火が小さくなり、蜂が遅れて巣に戻る。
板の文字は墨の匂いを放ち、土下座枠の白線が月光で薄く浮く。
静けさは、今日も少し戻った。戻るたびに、恥は手順の側に寄ってくる。
翌朝の掲示は、こうなるだろう。
〈三日後:続・公開監査。
会計係より数字提出。歌にもする。
王都より使い来る見込み——板の前で〉
風が板を撫で、相場竿が一度だけ鳴った。
次は、王都の番だ。
——次話予告:「公開監査、そして静かなざまぁ」
(土は冷たいが、恥を焼かない。順序が焼く)