第6話「刃物なき開戦」
朝の掲示は三枚重ねになった。
一枚目は相場の三行。二枚目は光箱開封の手順。三枚目に、新しく太字で。
〈本日:公文改め・召集・通達を順に行う。
印章は板の前で。記録は歌簿と重ねる。
刃物は不要。順序が武器〉
光箱の封蝋を割る。蜜蝋が薄く鳴き、蓋が上がる。底紙を焚き火にかざすと、褐色の軌跡が浮いた。
日の高い時間に入れた金は真ん中を通り、薄暮に入れた分は斜めに走る。夜に触れさせようとした指は、途中で引っ込んだ跡だけが残っていた。
「昨夜の“命令”は届いて、届かなかった」
老人が底紙を覗き込んでうなずく。
「届かない歌は、いい歌だ」
午前、最初の公文改め。
王都広報院が出した“断罪訂正”の原紙と、昨夜の偽物が持ち込んだ丸い文の二本を板に並べる。
監査側の印——今日は出納改めカイト——が表面を撫で、端を剥がし、透かす。
「紙が違う。繊維の向きが反対だ。偽物はにおいがしない」
カナが笑う。
「歌にも匂いがある。丸い言葉は、鼻に入らない」
女官が赤面しつつも頷き、本物の訂正に再署名。板の木目が文字を吸い、剥がれない文がまた一つ増えた。
次は召集。
召集状は三種類——関所北二の責任者、港北倉の“底浸し”関与者、そして灰宰相派の会計係。
文の骨は短い。
〈市の前で事実を述べよ/印章を持参せよ/歌簿と照合する〉
届けは渡し守の舟と、行商の荷と、吟遊詩の口に乗せ、三つの経路で流す。
「文字が苦手な者のために、召集の歌も」
カナが四拍子で刻み、子どもたちが追い歌にした。
—「北二、港北、会計の人。板のまえで、印を見せ。
歌と数字で、道を合わせ。来なけりゃ道は、別に作る」
“来なけりゃ”の一節で、輪が少しざわつく。
別に作る——代替経路。権限に空白があれば、手順で橋を架ける。刃物はいらない。地図があれば、進める。
昼前、最初に現れたのは港北倉の書記だった。顔色は塩のように白い。
「底浸しは……手順だと、思っていた」
「手順は皆が知っているものだけが手順だ」
俺は基準値板の端に、細い欄を足した。
〈“慣例”と称する私手順、明示→廃止〉
書記は目を伏せ、印章を差し出す。カイトが透かし、刻み、爪で縁を引っかく。
ぱきり。
「また貼ってある」
輪が呼吸を忘れ、すぐ取り戻す。
俺は印章凍結の札を掲示板に止めた。
〈港北倉:印章使用停止。再発行は板の前で〉
正午、関所北二の責任者が馬で来た。肩章は煤け、目は固い。
「臨時加算は、命令だった」
「命令は誰の署名で?」
責任者は口を開け、閉じた。懐から出した文には、今年の様式と昨年の様式が継ぎ目で並んでいる。
エリスが一歩進み、指で継ぎ目を押さえた。
「この継ぎ目、便利ですね。責任の所在が移動できる」
責任者は唇を噛む。
「……命令は口で降りた。紙は、あとで」
「口の命令は、歌にならない」
カナが静かに言い、板に三行が増える。
〈口の命令は、板に乗せるまで命令に非ず〉
責任者は肩を落とし、臨時返金の印紙に署名した。民会から拍手が起こり、すぐに止む。祝うためではない。動くためだ。
午後、最後に現れたのは会計係だった。上質な外套、淡い香。手には革の帳簿。
「灰宰相派の会計を預かる。君らの方法は——越権だ」
板の上、最初の一枚“越権の定義を求む”の下へ、俺は空白を指で叩いた。
「定義を」
会計係は鼻で笑い、言葉を選ぶ。
「公儀の権能と対立する権力の生成」
「権力ではなく、手順です」
「手順は権力を装う」
「装う必要はない。板に出ているから」
輪が静まり、エリスが革帳簿へ視線を落とす。
「帳簿を、板の前で開いて」
「機密だ」
「機密は定義が先」
カイトが一歩出た。
「監査側として開示を求める。歌簿と照合する」
会計係は外套の裾を握り、やがて指を離した。
帳簿が開く。行は細かく、数字は真面目に並び、途中で目が泳いでいる。
俺は歌簿の束を重ね、ページの角を合わせた。
「ここ。便宜と書いてある。昨日、竿から外した言葉」
会計係の喉が鳴る。
「便宜は必要経費だ」
「なら、歌にして」
カナが拍を刻む。
会計係は口を開き、歌えなかった。
「歌えないものは、値に入らない」
板に一枚、新しい札が打たれる。
〈便宜=歌えない支出、不可〉
通達は手早く、はっきりと。
関所北二は臨時加算の停止と返金実施。港北倉は搬出停止と印章再発行待ち。灰宰相派の会計は便宜項目の凍結。
通達を渡すとき、俺は柄頭印で木口を軽く叩いた。音は小さく、遠くへ通る。
「刃物はいらない。音で届く。板の音で」
夕刻、反撃が来た。
王都からの早馬。金糸の肩章。封蝋は濃灰。
文は端正で、最後の一節に毒が塗られている。
〈地方における“公文改め”は、王都監査官の臨席なき場合、無効〉
輪が凍り、すぐに息を吹き返す。
俺は文の下に三行、骨だけを置いた。
〈監査官メイヴの最終通達:地方における暫定監査の権限委譲——民会・監査側・市代表の三者立会で有効〉
カイトが胸から小さな封書を出し、封を割る。メイヴの筆跡だ。
「予見していたな」
彼は板の前で読み上げ、署名を重ねる。
「王都の“無効”は、ここでは無力だ」
反撃の第二波——買い占め。
市の端で、不自然な手が穀をまとめて持っていく。
相場竿の札がわずかに跳ね、基準値板の数字が不安を拾う。
俺は竿の横に逆流札を立てた。
〈買い占め発見時:臨時市を開く。基準値±一の範囲で販売。札は一人一枚。歌簿に記録〉
老人が杖で石を二度叩く。
「臨時は誰かの恒例、だが、臨時市は皆の恒例でいい」
買い占めの手は、札を受け取れない。名前が要るからだ。
輪の中で笑いが小さく生まれ、怖れに穴が開いた。
夜、導灯が七つに増えた。灯りは地図になり、地図は秩序になる。
会計係が去る前、俺は一行、板へ書き足した。
〈明日、公開監査の予告。灰の財布の筋を読み上げる〉
会計係の顔色がさらに薄くなる。
「公開など——」
「非公開は手順の外」
エリスが静かに言い、葡萄色の裾が微かに揺れた。
「隠す必要がないやましさなら、歌にして」
焚き火が低くなり、蜂が巣に帰る。
カイトが最後に言った。
「明朝には王都に戻る。メイヴと合流して“無効通達”の無効を確定させる。……君は何者だ」
柄頭印を指先で転がし、元の位置に嵌める。
「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」
彼はうなずき、馬具を整えた。
「では、土下座の手順を王都に教えてやる」
老人がむせて笑い、カナが肩を震わせ、エリスが目だけで笑った。
夜の底、導灯の光が川面に細い道を作る。
刃物はどこにもない。あるのは板と印、歌と札、そして手順。
静けさは、今日も少し戻った。戻るたびに、誰かの威圧は音を立てずに崩れる。
翌朝の掲示は、こうなる。
〈明日:公開監査/“灰の財布”読み上げ。
立会:監査/市代表/読み手多数。
歌にして覚え、板で確かめ、法で止める〉
——次話予告:「土下座の手順」
(恥は私刑でなく、順序で可視化する)