第5話「灰の財布、光の前で」
朝の川は薄い銀色で、導灯の芯の煤がまだ指に残っていた。
掲示板のいちばん上、昨夜の一行が人目を刺す。
〈越権の定義を求む〉
言葉は定義がないと、刃物にも枕にもなる。曖昧なまま人を切り、曖昧なまま眠る。
定義を呼び出すには、動きを表に出すのが早い。
相場竿の隣に、新しい枠を立てた。
透明な箱を三つ、光箱。油、蝋、渡し賃——市で集まる金は、全部ここに入る。鍵は二本。村側と監査側。蓋の縁には蜜蝋を薄く塗って、終わりに封を落とす。
封は誰の目にも光る。剥がせば跡が残る。灰の財布は暗がりでしか呼吸できない。
老人が箱を覗き込んで頷いた。
「昼間の金は、昼間の顔でいればいい」
「夜は導灯を増やします。箱の影が濃すぎないように」
カナが笑った。
「影が歌になる前に、光を当てるわけね」
基準値板を更新し、公開入札の結果の歌簿を紐から外して読み合わせる。昨夜の短い歌が、板の木目に絡みついている。
子どもが指で拍をとり、老人が低く支える。歌は覚えやすい。だから約束は忘れにくい。
午前の市が回り始めたころ、王都からの使いが一行、埃を巻き上げた。灰色の外套。肩章は銀糸。表情は“仕事の表情”。
先頭の男が名乗る。
「歳入役所、出納改めのカイトだ。『越権の定義』に関する回状を持参した」
紙は他所行きの文体で、核心から遠回りする。
〈地方が公儀の徴収に関与し、数字を掲示して民意を煽るは“越権の兆し”〉
カナが首を傾げた。
「歌に乗らない」
俺は紙を掲示板の横に貼り、下へ短く付け加える。
〈“煽る”の定義を求む/掲示は扇ではなく物差し〉
カイトの視線が光箱に止まった。
「それは何だ」
「今日の金の居場所です」
「居場所?」
「金は、夜、居場所を変えたがる。だから昼の居場所を決めておくと、夜に嘘をつきにくくなる」
彼は鼻で笑い、すぐに笑わなくなった。箱の蜜蝋封と、鍵穴の二重を見て、仕事の目に戻る。
「封は毎日?」
「市が終わるたび」
「鍵は誰が」
「村代表と監査側。今日はあなたが監査側です」
カイトはわずかに身を固くした。監査官メイヴの名を出す間もなく、彼は自分が“立会人”に組み込まれたのを理解したらしい。
正午、灰の財布に踏み込む段取りを始める。
まずは印紙。
板の下に薄い紙束を置く。村の刻印と学寮の刻印を重ね、透かしに蜂の羽の筋を入れた。
印紙は、補償や返金にしか使わない。現金よりも目立つ金の代わり。目立つものは、暗がりで扱いにくい。
「臨時加算で痩せた分、返します」
俺は光箱の横に印紙箱を置き、老人と子どもに数を読ませた。
「印紙は見える箱へ。現金で返すという者は、この場で理由を。箱を嫌う金は、灰色の匂いがする」
輪がざわめく。笑いが少し、安堵が少し、疑いが少し。
カイトが口を挟む。
「印紙は換金可能か」
「可能。ただし市場の前で。換えるときは、歌簿と一緒に読む」
「歌簿?」
「約束の記録です。言葉と数字の二重底」
そこへ、灰宰相派の顔が二つ。昨日の“徴げ手”と、もう一人は飾り紐の多い男だ。
「越権だな」
「定義を」
俺が板を指すと、飾り紐は一拍だけ遅れて眉をひそめた。
「民意を煽動して役所を脅す行為」
「掲示は脅しではなく、見えるところに置く手順です」
「歌など論外だ」
カナが片方の眉だけ上げる。
「論に外れている便利さはあるわ。耳に入るという利点」
午後、金の動きを観るための小さな仕掛けを動かす。
光箱の底へ薄い白紙を敷いておく。金が触れるたび、薄い粉が付く。粉には蜂蜜に混ぜたわずかな炭素が含まれていて、翌朝、紙を火にかざすと触れた軌跡が褐色に浮く。
「染めるのか」カイトが目を細める。
「染めるのではなく、残すんです。金は喋らない。だからこそ、歩いた跡に声が出る」
夕刻前、王都広報院からさらに一通。文言は丁寧で、最後にやはり一行。
〈歌での周知は不適切〉
俺は板に二行、重ねた。
〈識字率の差を埋めるための補助。歌は物差しの影〉
影が物を歪めるなら光を増やす。導灯を一本足す。
入札の前段、俺は箱の横に**金の道標**を立てた。
光箱→封蝋→印簿→翌朝の開封→支払い→再封。
矢印と拍で示す。
手順が歌になれば、誰でも唱和できる。唱和できるものは、独占できない。
そのときだ。
光箱の前で、飾り紐の男がつぶやいた。
「箱の金を、夜に動かせと言われたら?」
誰に、とは言わない。言わない言葉ほど、言っている。
俺は首を横に振る。
「夜に動くのは、灯りです」
「命令だぞ」
「命令は手順の上に乗ると命令になる。下に潜るなら便宜だ」
輪が固くなる。老人が杖で石を二度叩いた。
「夜警」
短い合図で、若い夜警が光箱の周りに位置を取る。鍵は二本。蜜蝋封はまだ新しい。
カイトがゆっくり口を開く。
「私は監査側だ。夜間の開封は認めない。開けるなら、板の前で」
飾り紐が一歩、退いた。退き方に、覚えのある癖。上から来た者が引くときの角度だ。
日が傾き、入札の鐘が鳴る。
舟の修繕、夜警の装備、導灯の芯。数字が板に並び、歌が短く通る。
“便宜竿”には、今、札が一枚もぶら下がっていない。風が竿だけを鳴らす。耳障りの悪い音は、今日はない。
片づけに入る前、エリスが短く言った。
「今夜、偽の使いが来るかも。広報院の印章を持って、文を“差し替え”に」
「光箱を狙う?」
「文の方。訂正を“柔らかく”戻す。歌にならない言葉に置き換えて」
カナが肩をすくめる。
「歌えないものは、覚えられない。覚えられないものは、好き勝手に塗り直せる」
夜。
導灯が六つになり、川の黒が縫い目だらけになった。
子どもが歌い、老人の低音が下を支える。歌簿の紐は固く、光箱の封は薄く光る。
そこへ、二人連れ。外套は新しい。歩き方は古い。
「広報院の者だ。訂正文を——」
「読んで」
俺は板の前を指した。
男は一瞬だけ目で助けを探し、それから紙を広げた。
言葉は丸かった。角がない。丸い言葉は、板から落ちる。
カナが眉を寄せる。
「音節が合わない」
エリスが一歩だけ踏み出し、文の下に三行で骨を写す。
〈断罪の一部は誤り/根拠に不備/撤回する〉
偽の使いは頬を引きつらせた。
「そこまで削るな」
「歌えない言葉は、物差しにならない」
男は舌打ちし、外套の内側へ手を入れ……何も出さなかった。
夜警が一歩、詰める。
光箱の封が、導灯に照らされて金色に沈黙した。
「文は預かる。歌にして回す」
俺が言うと、男は吐いた息を拾えないまま、暗がりへ引いた。
深夜、焚き火が低くなった頃、カイトが光箱の前に立つ。
「王都で、これをやるのは難しい」
「難しいでしょう」
「だが、できる。箱を光に出し、人を手順の前に出す。……君は何者だ」
鍬の柄頭印を指先で転がし、柄に嵌め直す。
「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」
彼は唇の端を微かに上げ、すぐに真顔に戻る。
「明朝、私は戻る。灰の財布の筋を追う。箱の底紙を忘れるな」
「忘れません」
夜がいちばん深くなる頃、蜂の羽音が一度だけ鳴って消えた。
光箱の封は静かに冷え、歌簿は焚き火のぬくさで柔らかい。
静けさが、また少し戻った。
戻るたびに、金の言い訳が減る。
翌朝の掲示は、こうなる予定だ。
〈本日:光箱開封。底紙の軌跡公示。
灰の財布の筋を、板と歌で追う。立会:監査/市代表/読み手多数〉
風が板を撫で、相場竿の札が小さく鳴る。
手順は揃った。次は、刃物なき開戦だ。
——次話予告:「刃物なき開戦」
(召集状・印章・通達・記録——順序が武器になる)