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第4話「民会は歌になる」

 掲示板の上に、もう一枚の薄板を括りつけた。

 歌札うたふだ——規則を短い歌にして配るための板だ。文字は苦手でも、歌なら口が覚える。数字は指が覚える。覚えたものは、誰のものでもない。


 朝の準備は手順どおり。秤の皿を磨き、基準値板に三行を書き入れ、相場竿に札を吊るす。

 そして今日の主役、公開入札の枠を白木の板に罫引きする。

 項目は三つ——油、蝋、渡し賃。

 枠には、ただ値段を書くのではない。内訳(材料・運搬・人件)、納期、保証、それから歌の欄がある。

 歌? そう、歌だ。落札した者は、自分の値を歌にする。次の市まで、その歌が町を回る。嘘は歌うと音程が崩れる。


 吟遊詩人のカナが、指を鳴らして拍を作った。

「試しに、基準値の歌から」

 カナが歌い、子どもたちが追いかける。

 —「塩は十五、穀も十五、蝋は一夜で一。

  針は真ん中、札はここ。臨時は誰かの恒例」

 輪の外で笑いがほどけ、両手のひらが拍子を覚えていく。

 渡し守の老人が顎で俺を示す。

「裏天——いや、順序を置く者。入札はどう回す」


「二段階です。まず歌の審査。次に値の審査」

 ざわめきが走る。値より先に歌? そう、歌だ。

「歌で誤魔化すつもりは?」と“徴げ手”が鼻にかける。

「歌で誤魔化す者は、歌でバレる。歌詞は板に写します。何度でも照合できる」


 最初に前へ出たのは、油搾りのベック。手が大きい。声は低い。

「油:一夜分“半”で落とす。材料は菜種、運搬は自前、納期は今夜、保証は灯りが消えたら倍返し。歌は——」

 彼は咳払いを一つ置き、短く歌った。

 —「菜の花一反しぼって半、導灯三つで夜は満」

 短い。だが覚えやすい。

 カナが頷く。

「いい。覚えの速度が、約束の速度になる」


 次は蝋。港南倉の若者だ。

「蝋:一夜“二分の一”。混ぜ物なし。納期は今夜。保証は芯が泣いたら全額返。歌は——」

 —「蝋は白、芯はまっすぐ、夜は皆のもの」

 素朴だが、混ぜ物が無い歌には混ぜ物の音がしない。

 老人がひげを撫でた。

「悪くない」


 “徴げ手”が肩を怒らせて出た。

「渡し賃は俺が仕切る。値は“臨時”で上げる。歌は——」

 —「臨時は上から、従え下々」

 輪が凍る。

 カナが首を傾げ、子どもが小声で真似してみて、すぐ笑い、すぐ笑えなくなる。

 俺は板に写しながら問う。

「その歌、誰が覚える?」

 徴げ手は口を開け、閉じ、舌を噛んだ。

「じゃあ値で勝負だ。渡し賃は——」

「基準値据え置きです」

 俺は相場竿の「渡し」の札を指した。

「値をいじるなら、理由を。理由が数字なら竿が動く。理由が都合なら動かない」


 そのとき、王都から二台目の馬車が小さな埃を引いた。

 肩章は金糸、だが顔は石膏のように白い。

 馬車から降りた女官が、丁寧に布包みを差し出した。

「王都広報院より。“断罪放送”の訂正文です。本来なら非公開で……」

 エリスが一歩前へ出た。

「公開で読みます。今ここで。歌に乗せてもいい」

 女官がたじろぎ、俺を見、カナを見、村の輪を見て、ゆっくり頷いた。

 開かれた文書は、気の抜けた泡のような言い回しで責任の所在を避けようとしていた。

 カナが瞬きを一度。

「これ、歌に乗らない」

 エリスは微笑もしない。

「乗らない言葉は、物差しにしない」

 俺は文の骨を三行に削った。

〈断罪は一部誤り。根拠書類に不備。撤回する〉

 そして輪を見渡す。

「この三行だけを、歌にしよう」

 カナがすぐに調を置き、子どもが拾い、老人が低く支えた。

 —「断罪ひとつ誤りで、根拠の印が混ざってた。

  板で読むから嘘は消え、撤回ここで印押す」

 女官は顔を赤くし、それでも震える手で板の端に印を押した。インクが木目に染み込み、剥がれない文になった。


 午後の入札は、仕上げに渡し賃が残った。

 徴げ手がなおも踏ん張る。

「据え置きじゃ足が出る」

「内訳を」

「人件二。舟の修繕一。役所の“便宜分”一」

 輪の空気が硬くなった。

 老人が杖で石を叩く。

「“便宜分”?」

 徴げ手は視線を逸らす。

「……後で払わせるって意味だ」

 港南の若者が、先刻と同じ言葉で苦笑した。

 俺は相場竿の横に新しい細棒を立てた。便宜竿。

「“便宜分”は、ここに吊る。目に見える場所に。

 吊られてもなお必要だと皆がうなずくなら、値に入れる。吊られて黙るなら、値から落とす」

 竿の先に、薄い札がぶら下がる。風が揺らすたび、札は音を立てる。便宜の音は、耳触りが悪い。

 子どもが顔を上げて言った。

「この音、歌に合わないや」

 輪が、笑って、今度は笑いが止まらない。

 徴げ手は肩を落とし、結局、便宜札を自分で外した。

「……据え置きでやる。舟の修繕は入札する」

 板に新しい枠が生まれた。仕事が、見える場所へ引っ張り出される。


 夕刻、落札が決まる。

 油はベック、蝋は港南、渡し賃は据え置きのまま、舟修繕は鍛冶屋ホルクが勝った。

 それぞれの歌が一度ずつ輪を回り、木札に写され、掲示板の下に綴じ紐で束ねられる。

 この束は、歌簿うたぼ——次の市で照合される、口と数字の両方の帳簿だ。


 片づけに入る前、俺はエリスに耳打ちされた。

「広報院の訂正、ここで歌にしたのは良かったわ。……でも王都は、別の声を立ててくる。『地方の越権』という声を」

「手順は越権を食わない。越権はいつも、手順の外にいる」

「そうね。……夕刻、もう一通、届けが来る。灰宰相派から。たぶん、うわべだけ丁寧な圧」

 俺は頷き、導灯の芯を撫でた。

「圧には、光を。灰には、水を」


 夜。

 導灯が四つから五つに増え、川面が黒い布に縫い目を付ける。

 ベックの油は匂いが少なく、港南の蝋はよく燃え、渡しの舟は静かに往復する。

 カナの歌が小さく反復し、子どもの声が高いところを拾う。

 歌は町の隅々に入り込み、臨時という言葉の居場所をじわじわ削った。


 焚き火のそばで、老人が麦酒を半分くれた。

「歌にしたのは見事だ。忘れそうな約束ほど、声にしておくもんだ」

「声は消える」

「消えるが、戻せる。板と歌は、互いの控えだ」

 老人は顎で相場竿を示した。

「次は、金の流れか」

「ええ。灰の財布を、光に出す」


 その夜更け、導灯の影をかすめて、暗い封蝋の文が届いた。

 灰色の紋章、丁重な文体、最後に一行。

〈越権の兆しあり。公儀の不便、看過し難し〉

 俺は文を焚き火にかざし、エリスに見せ、板の前まで歩いた。

 そして一番上に、短く書く。

〈越権の定義を求む〉

 定義なき言葉は、便宜の札と同じだ。


 風が灯りを揺らし、蜂が遅い軌跡で巣へ帰る。

 相場竿の札は夜でも黙り、歌簿は焚き火の横で温まっている。

 鍬の柄頭印を掌で転がし、柄に嵌め直す。

 静けさは、今日も少し、戻った。

 戻るたびに、歌える約束が増える。


——次話予告:「灰の財布、光の前で」

(金は黙る。だからこそ、動きを見れば喋る)

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