第3話「塩の値は嘘を嫌う」
午前の風は乾いて、掲示板の角を軽く叩いた。
板には新しい一枚が増えている——基準値板。市のたびに一番最初に書き込む、たった三行の数字だ。
〈本日の基準:塩一袋=十五/穀一袋=十五/蝋一夜=一〉
この三行は、物語ではなく物差しだ。相場は変わってよいが、物差しが曲がったら、手が怪我をする。
王都からの使いは昼過ぎに来ると報せがあった。先触れの少年が、馬蹄の音より先に汗の匂いで知らせてくれた。
それまでにやることは、塩だ。
塩は嘘を嫌う。濡れれば重くなり、乾けば軽くなる。運ぶほど袋は擦れて減る。手癖はそこに入る。数字に、さも当然の顔で。
河岸に秤を据え、袋の下に薄い板を敷く。風の向きを見て、針の揺れを覚える。
最初の塩袋。皿に上げる。
針はわずかに左へ寄り、真ん中へ帰る。
「十五」
次。
「十四と三分の一」
次。
「十四」
矢印を板に描き、北西の関所を指す点を増やしていく。点は線になり、線は名前のない誰かを浮かび上がらせる。
「今日は港から二隻だ」
渡し守の老人が指差した川の奥、帆の影が二つ。大小の並び、積みの低さ。
俺は鞄から塩見の尺を取り出した。祖父の遺した、木片に刻んだ浅い溝が幾つも並ぶ、簡素な棒だ。
袋の口を指で開き、棒を差し込む。溝が塩に濡れ、色が変わる。
「……底だけ濡れてる」
若い夜警が目を丸くする。
「舟に積む前に、袋の底を水に浸した。重く見せるために」
「そんな手を」
「手は、楽な方へ行く」
老人が渋い顔で頷く。
「船頭じゃない。積む前の者の仕業だな。底を浸せば、舟の上でもずっと重い」
俺は基準値板の端に小さく書き足した。
〈本日:港北倉“底浸し”の疑い〉
そこへ、小さなざわめきと、薄い香り。
葡萄色のドレスの裾が視界に入った。
「遅れて済みません」
エリスだ。髪は高くまとめ、手には細い巻紙の束。周囲の視線はまだ“悪役令嬢”という名札を外せずにいる。
彼女は輪の外で一礼し、監査官メイヴへ巻紙を渡した。
「港北倉の搬出表です。昨年様式と今年様式が混在しているのは——意図的です。日付欄の位置を毎年わずかにずらす“改良”と称して、古い印章を使い回しやすくする。作表者は『伝統の勝利』と冗談めかしていました」
メイヴの目が細くなる。
「君はどこでそれを」
「学寮の監査講義で——講義の講師をしていましたから」
数人の肩がびくりと動く。噂が一つ、靴を履き間違えていたらしい。
俺は軽く息を吐き、塩袋に細い棒を差す。棒の先に薄布が巻いてある。布はすぐ湿る。
「底浸しなら、袋を横倒しにして——音を聞く」
転がした袋の中で、塩が固まりから砕ける音がする。
老人が頷く。
「乾いた袋なら、もっとさらさら鳴る」
輪の中で“徴げ手”が笑いを作った。
「塩の音? 詩人の仕事かよ」
吟遊詩人が肩をすくめる。
「言葉が数になるなら、音が証拠になってもよい」
基準値板の前で、メイヴが短く言う。
「港北倉の搬出停止。王都へ連絡。『底浸し』を犯罪として扱う前例を探す。なければ作る」
“徴げ手”の顔がゆっくりと乾いていく。
「勝手な真似を」
「勝手は、手順の外にしかない」
昼前、王都からの使いの馬が到着した。肩章は金糸、紋章は形だけ立派、目は忙しいが焦点が合わない。
「公文改めの使いである。臨時加算の紙と、その撤回文書を持参した。撤回は、後日、非公開で」
メイヴが首を横に振る。
「非公開は手順の外だ。撤回はここで、板に。数と同じ場所で」
使いはたじろぎ、エリスと俺を見比べ、灰宰相派の“徴げ手”に目で助けを求め、助けは来ない。
エリスが前に出た。
「撤回文書は、市の代表と監査官と、読み手の前で読み上げを」
「読み手?」
「ここに居る人たち全員です」
渡し守の老人が杖で石を叩いた。
「読むぞ」
ざわめきが静かになり、使いが恐る恐る口を開く。
撤回文書は、要するにこうだ——臨時加算は取り下げる。理由は“様式の混乱”。
“混乱”という言葉が、上から目線で板に落ちる。
俺はそこに一行を足した。
〈“混乱”は作られた。混ぜた者がいる〉
午後は、相場だ。
俺は板の横へもう一本、細い棒を立てた。相場竿。基準値板の横で、穀と塩と蝋の札が縦に上がり下がりする。
「今日の塩は、底浸しを除いて十四から十五。港北倉の停止で出が細るが、渡し守の舟で補う。値の幅はこれだけ」
竿の上で札が揺れる。
「幅の外で売りたい者は、理由を言って。理由が数字なら、札を動かす。理由が都合なら、札は動かない」
輪の外で、数人が笑って、それはすぐ止まらず、しばらく続いた。
その時、舟の鈴がまた鳴った。
小さな舟だ。荷は少ない。
舟から降りた若者が、帽子を胸に当てて言う。
「王都南倉からの塩です。港北が止まると聞いて」
袋を載せる。針は十四と半分で止まった。
「いい塩だ」
若者は安堵し、そして口を噛んだ。
「……本当は、北に回すはずでした。でも、あそこは印章が二ついる。片方は“無料”で借りられますが、もう片方は高い」
メイヴの眉が上がる。
「“無料”と“高い”?」
「“無料”は彼らの言い方です。あとで払わせるって意味です」
輪の空気が重くなる。
俺は基準値板の端に新しい欄を描く。
〈印章コスト:北=二(うち一は“後払い”)/南=一〉
数字は、裏切らない。言葉よりも、恥ずかしがり屋だが。
夕刻前、使いが震える声で言った。
「撤回文書は読み上げた。私は——」
「もう一つある」
エリスが静かに遮る。
「補償だ。臨時加算で痩せた人の痩せは、誰が埋める?」
使いは口を開け、言葉を探し、見つけられない。
メイヴが板にチョークを置きながら言った。
「王都は“痩せた分”を、次の市で埋める。手持ちがない? ああ、あるだろう。灰宰相派の**“灰の財布”は予定より膨らんでいるはずだ」
“徴げ手”が一歩だけ下がった。
「根拠は」
「君の舌**だよ。臨時、臨時と言っていた。臨時は、誰かの恒例だ」
基準値板の下に新しい札が付けられた。
〈補償:臨時加算差額分=次市にて全返。立会:監査官/市代表/読み手多数〉
風が強くなり、札が揺れる。
犬が吠え、すぐ黙る。
使いは汗を拭き、書類に署名し、皆の前で印章を押した。
印が板の端に濃く残る。剥がせない、貼れない、ここで生まれた印。
日が傾き、川面に光が細く伸びた。
俺は竿の札を一枚ずつ下ろし、針を布で包んだ。
「今日の塩は、嘘を嫌がった」
隣でエリスが小さく笑う。
「塩にも気難しさがあるのね」
「水と手癖に敏感なだけです」
「——それを“気難しい”と言うのよ」
やり取りを聞いていた子どもが、竹の札を握りしめながら言った。
「ねえ、“裏天皇”って何?」
輪が揺れ、何人かがこちらを見た。
俺は竹札を受け取り、竿の横に立てた。
「皆が見える場所で、順序を置く人だよ」
子どもはうなずき、札を撫でた。
「じゃあ、ぼくもできる?」
「できる。秤の針を真ん中に戻せるなら、誰でも」
夜、導灯が四つに増えた。舟の鈴は二度鳴り、三度目は鳴らない。
監査官メイヴは明朝に王都へ戻るという。別れ際、彼女は短く言った。
「明後日、公開入札を。王都の役所からも参加させる。板に数字を書き、歌にして町を回せ」
吟遊詩人が微笑む。
「詩になる頃には、面倒は減ってるといいね」
「減らすんだよ。手順で」
火の粉が一つ、空に上がって消えた。
俺は鍬の柄頭印を掌で転がし、もう一度、嵌め直した。
静けさは戻り、戻るたびに、誰かの嘘の居場所は狭くなる。
翌朝の掲示は、こうなった。
〈明後日:公開入札(油・蝋・渡し賃)——基準値板の横で。
歌い手募集。“臨時は誰かの恒例”の続き、作詞求む〉
蜂が一匹、板の上を歩いて、飛び立った。
空は高く、川はゆっくり。
手順は揃った。次は、金の流れを表に出す番だ。
——次話予告:「民会は歌になる」
(数字は覚えづらい。だから歌にして、嘘の耳にも届かせる)