第2話「公開計量、誰が怖い?」
朝いちばん、井戸端の石畳に秤を据えた。
皿は磨いた。錘は一つずつ布で拭いた。目盛りの針が、風よりも静かに真ん中へ戻るのを確かめる。
掲示板には太字で三行。
〈本日、市の初めに“公開計量”を行う。
秤は誰のものでもない。数字は皆のもの。
異議申立はその場で受理、板に残す〉
人が輪を作り始める。麦袋が積まれ、塩袋が並ぶ。
最初に前へ出たのは、渡し守の老人だった。背中は岸壁みたいに堅い。
「最初は儂の袋だ。誰も文句はないな」
誰も何も言えないのは、敬意と恐れが半々だからだ。
ひと袋。皿に載せる。針が揺れて、止まる。
「十五」と俺が言う。
次。「十四と三分の二」
もうひとつ。「十四」
ざわめき。
“俺の袋が痩せた”と口にできる者は、強い。口にできない者は、弱いままだ。
俺は痩せた袋の送り札を掲げ、出所と日付を板に記す。名前は書かない。最初の一歩は恥を伴わないほうが進む。
そこで、男が割り込んできた。色の濃い外套、爪の赤い甲冑、声は無駄に良く通る。
「茶番だな」
灰宰相派の“徴げ手”だ。噂どおり、声量の割に論は薄い。
「秤など、こしらえようによっては針が好きに踊る。臨時加算は上からの命だ。お前らの板切れで変わるかよ」
輪が揺れる。怯えの匂い。
俺は錘を一つ、男に渡した。
「持ってください。皆さんの前で、針がどう動くか見ていて」
「……は?」
「“好きに踊る”と言ったでしょう。針は踊らない。踊るのは口です」
笑いが少し起き、すぐ止まった。
俺は淡々と続ける。
「市の間、秤はここに置く。錘は三人で見張る。老人、吟遊詩人、そして——」
視線を巡らせ、子どもの手が挙がる。
「俺?」
「君がいい。数字を覚えるのが速い眼だ」
“徴げ手”の舌打ちが、石畳で転ぶ。
ひと袋ずつ、秤が真ん中を指す。
十四。十四。十四と少し。
数字が“流れ”になり、流れが“地図”になる。
いちばん痩せるのは、北の方角から来た袋。関所を二つ越える道だ。
板に矢印を描き、痩せた度合いを点で打つ。点が線になり、線が誰かを指す。
昼前、楽器の音。
吟遊詩人が輪の外で短い曲を鳴らし、声を置く。
「“臨時は、誰かの恒例”」
運ばれてくる笑い。固かった肩が少しだけ落ちる。
数字と歌の相性は、案外いい。難しい箱を、軽く持ち上げるための取っ手になる。
そこへ馬蹄。
灰色の外套、硬い表情。王都からの役目持ちだ。肩章に見慣れない銀糸がある。
女だ。背は高くないが、視線がまっすぐ刺さる。
「監査官、メイヴ・ハルター。王都歳入役所の派遣。帳と印章の確認に来た」
灰宰相派の“徴げ手”が、待ってましたと言わんばかりに前へ出る。
「渡りに船だ。こちらが臨時加算の——」
「黙れ」
監査官の一言は、刃ではなく手順の音がした。
「私は“臨時”より前に今年の様式を確認する。印章は、今年型だな?」
徴げ手が胸を張る。
「当然」
監査官はその印章を光に透かし、指の腹で縁を撫で、端に爪を立てた。
ぱきり。
薄膜が剥がれる。
「……貼ってある」
ざわめきが、呼吸を忘れる。
監査官は淡々と板へ歩き、鉛筆を取って書いた。
〈本日、関所北二・印章偽装の疑い。臨時加算の効力停止。監査立会人:監査官メイヴ/市の代表:渡し守ヨナ〉
“徴げ手”の顔色が、蝋燭の芯のように細くなる。
「待て、これは手違いだ」
「手違いは手順の外にしか起こらない」
輪が、呼吸を取り戻す。
俺は秤の針が動かないのを確かめ、監査官に一礼した。
「メイヴ殿。午後は、蝋です。夜の灯りの値を決めます。臨時は——」
「臨時は誰かの恒例、だろう」
彼女は吟遊詩人の歌詞を拾い、微かに口元を崩した。
「監査は数字を皆のものに戻す作業だ。続けろ。私は見る。必要なら署名する」
午後、市の真ん中で公開計量の第二部(蝋)が始まる。
油と芯、蜜蝋の混じり具合を確かめ、灯り一晩ぶんの原価を板に書く。
「今夜から渡し場に導灯を三基。夜警二名。費用はここに示す」
俺の字を、子どもがなぞる。覚える速さは武器だ。
渡し守が帽子を脱いだ。
「この値なら、皆、払える」
「払える値は守れる値だ」
“徴げ手”は逃げなかった。代わりに、言葉を変えた。
「……お前は何者だ」
俺は鍬の柄頭印を回し、ポケットにしまう。
「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」
「裏で……誰と繋がっている」
「表と、繋がっている」
輪に笑いが走り、すぐ止まり、またじわじわ広がる。
笑いは、敵意に穴を開ける。
夕刻、監査官が短く言った。
「明朝、王都に第一報を飛ばす。臨時加算の凍結、関所北二の職務停止。……それと」
彼女は視線だけで俺に近づいた。周りには聞こえない声で。
「君は、何故“様式の混在”に気づけた」
「板の木目を見るのと、同じです。揃っていないと、手が嫌がります」
「手が嫌がる」
監査官はその言い方を少し面白がって、それから真顔に戻った。
「王都で、誰かがそれを嫌がっていない。だから混在が起きる。私は明日戻る。……エリス嬢に、君の掲示を見せるといい」
エリス。
葡萄色のドレス、冷たい目、かすかな首振り。
俺は火を細く絞り、頷く。
「見せます。内々ではなく、皆の前で」
夜が深くなる。導灯が三つ、川面に揺れを置く。
犬が一声だけ吠え、黙る。
秤は板から下ろし、布で包んだ。針は真ん中に眠っている。
鍬の柄頭印を掌で転がし、再び嵌め直す。
静けさは戻りつつある。戻るたび、誰かの嘘の居場所が減る。
翌朝の掲示は、一行多い。
〈明日、王都より“公文改め”の使いが来る。
立会人を募る。署名は三名以上〉
風が板を撫でる。
遠くで馬の蹄。近くで蜂が低く鳴く。
手順は揃った。次は、見届ける番だ。
——次話予告:「塩の値は嘘を嫌う」
(相場は手癖に厳しい)