第12話(終章)「スローは日常、裏は手順に吸われる」
王都の朝は少し冷えて、標準灯の芯が昨夜の油をまだ覚えていた。
広報院前の広場、板のいちばん上に三行。
〈本日:鍵の返納・“私室”照会の完了。
完了印は板の前。
——肩書きより、手順〉
土下座枠の白線は薄く引き直し、角はやさしい。机は二つ、白布、秤、光箱、相場竿。歌簿は紐で束ねられて脇に置く。
老人が杖で石を二度叩いた。
「短く、深く、終える」
鍵主は遅れずに来た。
黒い外套は昨夜より軽く、目の下の影も薄い。手に細長い箱を抱え、板の前で立ち止まる。
「——返す」
蓋が開く。金属の光が静かに息をする。署名鍵。
彼は箱ごと光箱の脇へ置き、白線の外で一礼した。
「“私室”の鍵は、もともと余のものではない。預かっているつもりだったが、預けた者の目から遠すぎた」
メイヴが半歩進み、短く告げる。
「受領。照会完了。三者立会」
王太子が印章を落とし、木目がそれを吸った。剥がれない文が一つ増える。
俺は鍵に触れない。触れるのは手順だけだ。
白板に三行を書き付ける。
〈鍵=預かり物/置き場所=皆の目/運用=歌と数字〉
鍵主は箱を押しやって、かすかに笑った。
「肩書きが、余るな」
「余ったら、詩にすればいい」
カナが軽く指を鳴らし、短い拍を置く。
—「鍵は箱へ、目の高さ。
肩書き余れば、歌にする」
次に、照会の読み上げ。
光箱の封蝋を割り、底紙を焚き火にかざす。褐色の軌跡が三本、最後に一本へ収束していく。
——裏棚から光箱へ、私室から光箱へ、そして板の前へ。
カイトの署名で留められた照会簿には、もう便宜の欄がない。
エリスが余白に指で線を引く。
「“便宜”は歌にならなかった。だから、定義の外へ落ちた」
輪が静かにうなずく。人がうなずく時、秩序は音を立てずに整う。
完了印へ進む前に、王太子が白板の前へ。
「王都標準、本日より正式採用。
標準灯、板書式、報告書“指注”、光箱+底紙。
民会は月一、歌行は常に」
最後は拙くない。昨夜より上手い。
——歌は練習で強くなる。権力も、同じだ。
肩の力が落ちたところで、小さな騒ぎ。
輪の端から子どもが駆け、板の下で立ち止まる。蜂の羽音が掌に載っている。
「巣箱、運ぶの?」
「運ばない」
俺は笑って、鍬の柄頭印を掌で転がし、柄に嵌め直す。
「ここにも置く。王都は夜が長い。蜂は朝が得意だから、速度を分担する」
王太子が首を傾げる。
「速度の分担?」
「暮らしが前半、王都が後半。
前半は再現を作り、後半は配布を速くする」
完了印。
王太子、監査官、広報院、ギルド、民会代表、そして——鍵主。
鍵主は白線の内側に足を掛け、深く一礼した。
額は地に付かない。歌が嘘でないからだ。
蜜蝋が一滴、板の角に落ち、固まる。終わりの印の形。
これで、大きな流れは尽きた。
残るのは、暮らしだ。
*
数日後。
辺境の川はいつも通りで、導灯は標準灯になった。
顔が三歩で読める。芯は三拍で替わる。
相場竿には札が少なく、よく揺れる。
光箱は掌箱に縮んで、各家の板に三行が増える。
〈米いれ三/油いれ一/歌うたい半〉
歌うたい半は、だいたい子どもの声の高さだ。
畑は深すぎず浅すぎず。鍬の角度は規格どおり。
エリスが鍬の柄を半歩ずらし、俺は種芋を三拍で置く。
「裏天皇は、まだ裏?」
「裏は、だいたい板になった」
「肩書き、余った?」
「少し。蜂の巣箱の上に置いておく」
エリスが目だけで笑う。
「雨の日は、紙がふやけるわよ」
「ふやけたら、詩になる」
昼の市。
歌簿は薄く、しかし頼もしい。忘れ方が減ったからだ。
老人が杖で石を一度叩き、渡し守が帽子を上げ、ベックの油は匂いが少ない。
王都から来た女官は、最初より短い文を持ってくる。
骨三行、図、詳細、歌行。
子どもは図を読んで、歌行を覚え、骨三行を板に写す。
——読み手が変わっても壊れない。誰でも。
夕方、蜂が低く鳴き、巣箱に戻る。
川面に灯りが落ち、舟は静かに往復する。
その間に、王都では民会が開かれているはずだ。
王太子は歌がまだ下手だが、よく覚えられる下手さだと、メイヴの鳩信が言っていた。
灰宰相の椅子は空き、暫定の人が座っている。椅子は座るより支えるほうが難しい。
支えるのは、手順だ。
夜、焚き火の前でパンを裂く。
蜂蜜を落とし、外は固く、中は甘い。
エリスが空を見て言う。
「あなたは何者?」
何度も訊かれた問い。
何度でも同じ答えでいい。
「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」
「肩書きが余ったら?」
「歌にする」
彼女は頷き、パンをもう一口かじる。
「歌、下手だけど?」
「よく覚えられる」
*
翌朝の板に、もう大きな事件は載らない。
基準値板の三行。
〈塩=十五/穀=十五/蝋一夜=一〉
それから小さな告知。
〈標準灯の芯、子ども講習/家計箱の絵、今週は“川の歌”〉
“川の歌”。
—「三歩で顔、半夜で灯、三拍で芯」
短い歌は、暮らしの速度で回る。
俺は柄頭印を掌で転がし、鍬の柄に嵌め直す。
印はもう、鍵ではない。
鍵は光箱の上で眠り、皆の目の高さにある。
“裏天皇”の名は、詩の一行ぶんだけ残って、手順の中へ沈んでいった。
畑に出る前、板の端に小さな余白を作って、こう書く。
〈“スロー”の定義(第一版)
見える/測れる/歌える/誰でも。
再現は力。手順は武器。静けさは勝利。
※本規格は歌で配布〉
風が板を撫で、蜂が一匹、余白の上を歩いて飛び立つ。
川はゆっくり、灯りは規格どおり、歌は短い。
静けさは、もう“戻る”ものではない。ここにある。
鍬の最初の一撃は浅く、土は笑い、腰は笑わない。
エリスが横で、同じ角度を刻む。
王都では今ごろ、標準灯が三歩の顔を照らしている。
——暮らしの速度が、国の標準になった。
今日の予告は要らない。
物語は、規格になったからだ。
続きは、板と歌で、誰でも書ける。
鍋の蓋が控えめに鳴り、蜂が帰り、川が光る。
額は地に付かない。
額より、順序。
ざまあは、静かに済んだ。
ここからは、日常だ。