第11話「王都規格会議」
王都の朝は、人の声が先に起きる。
広報院前の広場——かつて“断罪放送”の櫓が立っていた場所——に、今日は板が立つ。
上端には、いつも通りの三行が墨で太く。
〈本日:王都規格会議。
“暮らし規格・第零版”の整合と配布。
骨三行→詳細→署名→歌行〉
王都の石畳はよく磨かれている。磨き過ぎると足をすべる。だから板の前に砂撒き——滑らないための小さな手順——を先に済ませる。
広報院の女官、歳入役所の書吏、職人ギルド、そして王太子。
監査官メイヴもいる。肩章は銀糸、目は寝不足だが鋭い。
輪の外には、王都の噂を体に纏った人々。
俺は鍬の柄頭印を掌で転がし、柄へ嵌め直してから、白板に四つの見出しを書く。
1)標準灯 v0.1
2)板書式 v0.1
3)報告書 v0.1
4)整合手順 v0.1
先に歌で骨を置く。カナが王都の石に合わせて拍を刻み、子どもではなく見習い書記が追う。
—「骨は三、枝は後、印は板で、最後は歌」
王都の空気が、少しだけ柔らかくなった。
最初の議題は標準灯。
港南の若者と油搾りベックが簡易模型を机へ置く。
要件三つ——見える/測れる/誰でも。
ギルド長が反対の手を上げた。
「灯りの等級は十段。地方の“顔が読める”では曖昧だ」
「曖昧を現場で固めるのが規格です」
俺は机上の紙に輪郭を引く。
・顔識別距離:三歩。
・燃焼時間:日没から夜半まで。
・芯交換:道具なし、一息三拍以内。
数値が入ると、王都の顔が安堵に寄った。
カナが短く歌う。
—「三歩で顔、半夜で灯、三拍で芯」
メイヴが即座に追記する。
「“半夜”は季節で伸び縮みする。**『季の札』**を添える」
札一枚で、長い注意書きが歌に置き換わる。王都の膝が一本、余計に曲がる音がした。
次、板書式。
広報院の女官が、震える紙束を抱えて前に出る。
「文は端正で……長いのです」
「長いものは、後ろへ置く」
俺は板に四段の枠を引く。
A段:骨三行(誰でも読める)
B段:図(目の歌)
C段:詳細(術語は脚に)
D段:歌行(最短の口)
王都の読み手たちが、ほっと息をついた。
王太子が頷く。
「D段がなければ、A段だけでも配布できる。速度が出る」
彼は昨夜の歌よりも、少し上手に言葉を選ぶ。
報告書の番。
エリスが巻紙を開き、余白に細い罫を引いた。
「数字は余白で手を繋ぐ。脚注ではなく、指注」
女官が目を見開く。
「“指注”……読める」
メイヴが即座に線を足す。
「検算欄を縦に。読み手が、指で戻れる」
カナが鼻歌を置く。
—「数は余白で手をつなぎ、指で戻って歌を置く」
会議は進む。奇跡は一つも起きない。
奇跡の代わりに手順が積み上がり、長い言葉が三行と一行に吸い込まれる。
反対も出る。
「地方の“歌”は扇動だ」
「読み書きできない者に秩序は無理だ」
——全部、板の前で定義する。
〈扇動=可視化を壊す言葉/秩序=同じ結果を繰り返せる状態〉
定義の札が増えていくたび、王都の空気から言い訳が少しずつ抜けた。
昼、短い休憩。
王都のパンは塩が強い。辺境の蜂蜜を指先で落とすと、歌える味になった。
老人が麦酒を半分くれ、王太子が黙って相場竿の根元を触る。
「竿は、王都にも立てる」
「札は少ないほうがよく揺れる」
「少ない札で、多くを説明するのか」
「説明は竿がする。王は——札の意味を守る」
午後、整合手順の承認。
王都の規格(第七版)と地方の第零版。その差分を歌と図で束ね、採否を板で読み上げ、歌簿に綴じる。
ギルド長が唇を押し結ぶ。
「中央の威光が薄くなる」
メイヴが即答した。
「威光は見えない時に薄くなる。可視化は威光の保存だ」
言い切りの鋭さに、王都の輪が少しだけ笑った。笑って、すぐ真面目に戻る。
笑いは、権力の踵から力を抜く。
そこで、灰色の影が一つ。
新任の暫定宰相が、控えめに前へ。
目は疲れて、言葉は過不足ない。
「“灰の財布”の残部、明日、市の前で回収する。王都でも光箱を——二十で足りるか?」
俺は板の端を指で叩く。
「まずは二十。底紙を残す。箱は“皆の目に”置く」
宰相は短く頭を下げた。
「額ではなく、目に」
風向きが変わる。
広場の外から、古い詩が流れてきた。
吟遊詩が昔から歌ってきた“王都礼賛”。
カナが耳を傾け、微笑して、別の調を置いた。
—「王都は高い石ではなく、皆の目の高さにある」
古い詩の上に新しい歌が重なる時、争いは起きない。更新が起きる。
署名の番だ。
王太子、監査官、広報院、ギルド、民会代表——順に板へ印章を落とす。
印は木目に沁み、剥がれない文に変わる。
最後に、王都の読み手たちが指で押す指印。
識字の有無は問わない。押された指は、所有ではなく関与の印だ。
誰かが小声で言った。
「これが、王都民会か」
「民会は歌になる。歌は記録にもなる」
カナが歌簿を高く掲げ、縛り紐を結ぶ。
歌簿は厚く、しかし軽い。覚え方として軽い。
日が傾く前、王都の空に鳩が二羽。
一羽はメイヴへ、もう一羽は王太子へ。
同じ筆跡で短文。
〈“私室”の照会、受理。鍵主の署名は未。
裏棚封は完了。残る金は光箱へ運搬中〉
鍵主——名前はまだ出ない。
エリスが板の隅に小さく書く。
〈鍵主=署名鍵の保持者(定義のみ)〉
定義が先、名前は後。順序が守られる。
会議が閉じに入ると、王太子が一歩前へ。
「本日より、王都に標準灯を。広報は骨三行から。監査は光箱+底紙。
“裏天皇”」
呼ばれて、俺は否定しない。ただ柄頭印を軽く示す。
「裏の名は、手順に吸わせるものです」
「では、君は何者だ」
「畑を耕す者。秤を見張る者。順序を置く者」
王太子はゆっくり、白線の内側で一礼した。
額は地に付かない。形ではなく順序が前に出ている。
閉会の印を落としたその時、広場の端に濃い影が立った。
黒い外套、古い紋、顔は大理石のように白い。
その男——鍵主——が低く告げる。
「“私室”の鍵は、余の署名鍵だ。地方の板で晒す趣味はない」
王都の空気が冷え、輪が固まる。
メイヴが半歩、前。
「定義は先ほど置いた。可視化の妨害は、越権だ」
鍵主は指先で笑わない笑みを作る。
「越権の定義を、王が変えるとしたら?」
王太子が答えるのではなく、板が答えた。
木目の上に、今日の印章と指印。
——多数の読み手。
俺は静かに三行を追加する。
〈“鍵”=預かり物。
預かり物は、預けた者の目の前に置く。
王は預けられている。鍵主は、預かっていない〉
鍵主の指が微かに震え、外套の裾が揺れた。
彼は去らない。代わりに、時間が流れる。
長い沈黙の後、彼は低く言う。
「——明日、鍵を持って来る。板の前で返す」
輪が息を吐き、石畳がほんのわずか温くなる。
王太子は頷き、短く言った。
「完了印は、板の前で」
夕刻、会議は解かれ、人の流れは細くなる。
広場の端で、エリスが蜂蜜を少し指に取り、パンに塗った。
「今日、あなたは何もしなかったように見える」
「掃除をした。言葉の埃を払って、手順の通り道を」
彼女は目だけで笑う。
「王都でも、それが一番手間がかかる」
標準灯の試験点灯。
顔が三歩で読める明るさ。芯は三拍で替わる。
歌は短い。
—「三歩で顔、半夜で灯、三拍で芯」
王都の夜に、暮らしの速度が置かれた。
焚き火の代わりに石畳の残熱でパンを温め、光箱の封蝋が薄く光る。
鍬の柄頭印を掌で転がし、柄に嵌め直す。
静けさは、ここでも少し戻った。戻るたびに、標準が人の背丈に合っていく。
翌朝の板には、こう載せる。
〈明日:鍵の返納・“私室”照会の完了。
——完了印は板の前。
続けて、終章:スローの定義は日常へ〉
——次話予告:「終章:スローは日常、裏は手順に吸われる」
(肩書きは消える。残るのは、再現できる暮らし)