表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/12

第10話「スローの定義を更新する」

 朝の川はゆっくりで、鍋の湯気もゆっくりだった。

 掲示板のいちばん上に、今日は数字ではなく定義が三行。


〈“スロー”=見える/測れる/歌えること。

 見える:板と灯り。測れる:秤と基準値。歌える:歌簿と口。

 ——早さより、再現が偉い〉


 相場竿の札は外して干し、光箱は封のまま。秤の皿を磨きながら、俺は鍬の柄頭印を掌で転がす。

 王太子は昨日、板の前で歌っていった。王都で同尺の訂正が流れる頃だ。ここは、暮らしの速度を国に合わせるのではなく、国の標準を暮らしに合わせる番。


 老人が杖で石を二度叩く。

「今日は“規格きかく”を決める。手順の寸法だ」

 カナが笑って、歌簿に新しい見出しを書く。

〈暮らし規格 第零版〉


 最初は導灯どうとう

 港南の若者と油搾りのベック、それから渡し守が前に出る。

 板へ描くのは絵ではなく、要件だ。

 1)明るさ:渡し場で顔を読める程度。

 2)燃え時間:夜半まで連続。

 3)交換:誰でも芯が替えられる構造。

 4)費用:基準値板で歌に乗ること。

 老人が指先で小さな○を三つ打つ。

「灯りが見える、時間が測れる、やり方が歌える。これで“標準灯”だ」


 次は板の書式。

 王都からの紙は長くて、読み手が途中で息切れする。

 だから三行。

 〈骨三行→詳細→署名→歌行〉

 カナが即興で鼻歌を挟む。

 —「骨は三、枝は後、印は板で、最後は歌」

 子どもが線を引き、読み手が笑って、すぐ真顔に戻る。

 規格は愛想でなく、作業だからだ。


 エリスが葡萄色の裾で風を撫で、巻紙を持って前へ。

「報告書の規格も更新します。数字の根拠は脚注ではなく余白へ。読み手が指で辿れる配置に」

 余白には細い罫線が引かれ、項目は矢印で互いを指す。

 カナがうなずいた。

「歌にすると——」

 —「数字は余白で手をつなぐ、脚は注ではなく指でいく」

 輪が短く笑い、すぐ吸い込まれる。

 “歌える”とは、誰の口でも壊れないことだ。


 昼前、小さな波紋。

 市の端から、職人ギルドの印を付けた男たちが来た。肩章は堅く、言葉は丸い。

「規格は都で定めるべきで、地方で勝手に決めると混乱が」

 老人は杖で石を一度叩き、俺を見る。

 俺は板の左下に薄く欄を増やした。

〈整合の手順〉

 1)地方で先に運用(第零版)。

 2)王都の規格と差分を歌と図で提出。

 3)王都は板の前で採否を歌う。

「先に動かす。遅れて整える。暮らしが先、体裁は後」

 ギルドの男たちは顔をしかめ、やがて一人がため息をついて頷く。

「歌……は苦手だが、図なら付き合える」

「図も歌だ。目の歌」


 午後は鍬。

 柄の太さ、刃の角度、柄頭印の小穴まで決める。

 子どもたちが代わる代わる持ち、一度で深く刺さらない角度を探す。

「深すぎると腰を壊す。浅すぎると土が笑う」

 エリスが掌で柄を押さえ、線を半歩ずらす。

「これは手の規格ね」

 歌は短い。

 —「鍬は浅くてよく沈む、腰は笑わず土が笑う」


 次は家計の光箱。

 大きな箱ではなく、掌箱。

 蜜蝋封は薄く、鍵は一つ。毎晩、子どもと一緒に開封式をする。

 1)昼の入、夜の出。

 2)箱底紙は絵で残す(子どもの絵で良い)。

 3)翌朝、母屋の板に三行。

〈米いれ三/油いれ一/歌うたい半〉

 カナが笑って肩をすくめる。

「歌うたい半の書き方、好き」

 老人がひげを撫でて頷く。

「家の炭は恥を焼くためではなく、言い訳を焼くためだ」


 夕方、王都からの鳩信きゅうしん

 メイヴの筆跡。

〈王都でも“骨三行”が採用。光箱、二十箇所に設置。民会は月一。歌は下手〉

 カナが嬉しそうに拍を打つ。

「下手な歌は覚えやすい」

 鳩信の末尾に小さく。

〈灰宰相、正式に罷免。後任は暫定。

 “裏棚”は封鎖、私室は照会中。歌はまだ渋い〉

 俺は相場竿の根元に細い札を差した。

〈渋い歌→甘くなるまで運用〉

 歌は結果ではない。運用の途中だ。


 規格の締めは民会。

 議題は「スローの定義」。

 俺は白板の前で、ゆっくり書く。

 —“スロー”は怠けることではなく、

 —同じ結果をいつでも出せるように道具と順序を整えること。

 —交易は急ぐ。判断は急がない。再現にだけ速さを使う。

 カナが低く追い、老人が杖で石を叩く。

 子どもが手を挙げた。

「ぼく、覚えた。“見える、測れる、歌える”。あと何?」

「誰でも」

 俺は四つ目を板に足す。

〈“誰でも”——読み手が変わっても壊れない〉

 エリスが目だけで笑う。

「読み手は、いつも政治だからね」


 そのとき、風に乗って香がした。

 蜂の巣箱が夕陽で金に透け、蜜蝋の香りが薄く空に溶ける。

 エリスが巣箱に手を当て、耳を寄せた。

「——静かね」

「静かなのが、強い」

 蜂は踊る。踊りは座標になる。座標は規格の原型だ。


 日が落ちる前、板の下へ標準票を束ねた。

 ・標準灯 v0.1

 ・板書式 v0.1

 ・報告書 v0.1

 ・鍬 v0.1

 ・家計箱 v0.1

 ・整合手順 v0.1

 束の背に細く書く。

〈暮らし規格・第零版:王都整合に回付〉

 王都はこれを見て、たぶん難しい言葉を足す。足してもいい。骨三行が先にある。


 片づけのあと、焚き火のそばでパンを裂く。

 外は固く、中は甘い。蜂蜜を少し。

 エリスがふいに訊く。

「“裏天皇”は、いつまで裏でいるの?」

「裏が要らなくなるまで」

「要らなくなる日なんて、来るの?」

「裏が“手順”に吸われたら、名前が余る」

 彼女は頷き、パンをもう一口かじる。

「じゃあ、その日までは、鍋番もお願い」

「鍋番は、王の職ではない」

「裏王の職よ」

 焚き火が小さく笑い、鍋の蓋が控えめに鳴った。


 夜。導灯に火が入る。

 “標準灯”は顔を読める明るさで、誰でも芯を替えられる。

 相場竿は札を外して眠り、歌簿は紐で束ねられ、光箱は封の上で月光を弾く。


 眠る前、板の端に小さな余白を作って、こう書いた。


〈“スロー”の定義(第零版)

 見える/測れる/歌える/誰でも

 ——額より、順序。威圧より、再現。

 明日もこの速度で〉


 蜂が一匹、導灯の光に触れてから巣へ戻る。

 静けさは、今日も少し戻った。戻るたび、暮らしの遅さが強さに変わっていく。


 翌朝の掲示は、こうなるだろう。


〈明日:刃物なき開戦・王都編(規格の整合と配布)。

 “暮らし規格・第零版”を持って、王都の板へ。

 手順と歌で、標準を結ぶ〉


——次話予告:「王都規格会議」

(難しい言葉は長持ちする。だから骨三行から始める)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ