第10話「スローの定義を更新する」
朝の川はゆっくりで、鍋の湯気もゆっくりだった。
掲示板のいちばん上に、今日は数字ではなく定義が三行。
〈“スロー”=見える/測れる/歌えること。
見える:板と灯り。測れる:秤と基準値。歌える:歌簿と口。
——早さより、再現が偉い〉
相場竿の札は外して干し、光箱は封のまま。秤の皿を磨きながら、俺は鍬の柄頭印を掌で転がす。
王太子は昨日、板の前で歌っていった。王都で同尺の訂正が流れる頃だ。ここは、暮らしの速度を国に合わせるのではなく、国の標準を暮らしに合わせる番。
老人が杖で石を二度叩く。
「今日は“規格”を決める。手順の寸法だ」
カナが笑って、歌簿に新しい見出しを書く。
〈暮らし規格 第零版〉
最初は導灯。
港南の若者と油搾りのベック、それから渡し守が前に出る。
板へ描くのは絵ではなく、要件だ。
1)明るさ:渡し場で顔を読める程度。
2)燃え時間:夜半まで連続。
3)交換:誰でも芯が替えられる構造。
4)費用:基準値板で歌に乗ること。
老人が指先で小さな○を三つ打つ。
「灯りが見える、時間が測れる、やり方が歌える。これで“標準灯”だ」
次は板の書式。
王都からの紙は長くて、読み手が途中で息切れする。
だから三行。
〈骨三行→詳細→署名→歌行〉
カナが即興で鼻歌を挟む。
—「骨は三、枝は後、印は板で、最後は歌」
子どもが線を引き、読み手が笑って、すぐ真顔に戻る。
規格は愛想でなく、作業だからだ。
エリスが葡萄色の裾で風を撫で、巻紙を持って前へ。
「報告書の規格も更新します。数字の根拠は脚注ではなく余白へ。読み手が指で辿れる配置に」
余白には細い罫線が引かれ、項目は矢印で互いを指す。
カナがうなずいた。
「歌にすると——」
—「数字は余白で手をつなぐ、脚は注ではなく指でいく」
輪が短く笑い、すぐ吸い込まれる。
“歌える”とは、誰の口でも壊れないことだ。
昼前、小さな波紋。
市の端から、職人ギルドの印を付けた男たちが来た。肩章は堅く、言葉は丸い。
「規格は都で定めるべきで、地方で勝手に決めると混乱が」
老人は杖で石を一度叩き、俺を見る。
俺は板の左下に薄く欄を増やした。
〈整合の手順〉
1)地方で先に運用(第零版)。
2)王都の規格と差分を歌と図で提出。
3)王都は板の前で採否を歌う。
「先に動かす。遅れて整える。暮らしが先、体裁は後」
ギルドの男たちは顔をしかめ、やがて一人がため息をついて頷く。
「歌……は苦手だが、図なら付き合える」
「図も歌だ。目の歌」
午後は鍬。
柄の太さ、刃の角度、柄頭印の小穴まで決める。
子どもたちが代わる代わる持ち、一度で深く刺さらない角度を探す。
「深すぎると腰を壊す。浅すぎると土が笑う」
エリスが掌で柄を押さえ、線を半歩ずらす。
「これは手の規格ね」
歌は短い。
—「鍬は浅くてよく沈む、腰は笑わず土が笑う」
次は家計の光箱。
大きな箱ではなく、掌箱。
蜜蝋封は薄く、鍵は一つ。毎晩、子どもと一緒に開封式をする。
1)昼の入、夜の出。
2)箱底紙は絵で残す(子どもの絵で良い)。
3)翌朝、母屋の板に三行。
〈米いれ三/油いれ一/歌うたい半〉
カナが笑って肩をすくめる。
「歌うたい半の書き方、好き」
老人がひげを撫でて頷く。
「家の炭は恥を焼くためではなく、言い訳を焼くためだ」
夕方、王都からの鳩信。
メイヴの筆跡。
〈王都でも“骨三行”が採用。光箱、二十箇所に設置。民会は月一。歌は下手〉
カナが嬉しそうに拍を打つ。
「下手な歌は覚えやすい」
鳩信の末尾に小さく。
〈灰宰相、正式に罷免。後任は暫定。
“裏棚”は封鎖、私室は照会中。歌はまだ渋い〉
俺は相場竿の根元に細い札を差した。
〈渋い歌→甘くなるまで運用〉
歌は結果ではない。運用の途中だ。
規格の締めは民会。
議題は「スローの定義」。
俺は白板の前で、ゆっくり書く。
—“スロー”は怠けることではなく、
—同じ結果をいつでも出せるように道具と順序を整えること。
—交易は急ぐ。判断は急がない。再現にだけ速さを使う。
カナが低く追い、老人が杖で石を叩く。
子どもが手を挙げた。
「ぼく、覚えた。“見える、測れる、歌える”。あと何?」
「誰でも」
俺は四つ目を板に足す。
〈“誰でも”——読み手が変わっても壊れない〉
エリスが目だけで笑う。
「読み手は、いつも政治だからね」
そのとき、風に乗って香がした。
蜂の巣箱が夕陽で金に透け、蜜蝋の香りが薄く空に溶ける。
エリスが巣箱に手を当て、耳を寄せた。
「——静かね」
「静かなのが、強い」
蜂は踊る。踊りは座標になる。座標は規格の原型だ。
日が落ちる前、板の下へ標準票を束ねた。
・標準灯 v0.1
・板書式 v0.1
・報告書 v0.1
・鍬 v0.1
・家計箱 v0.1
・整合手順 v0.1
束の背に細く書く。
〈暮らし規格・第零版:王都整合に回付〉
王都はこれを見て、たぶん難しい言葉を足す。足してもいい。骨三行が先にある。
片づけのあと、焚き火のそばでパンを裂く。
外は固く、中は甘い。蜂蜜を少し。
エリスがふいに訊く。
「“裏天皇”は、いつまで裏でいるの?」
「裏が要らなくなるまで」
「要らなくなる日なんて、来るの?」
「裏が“手順”に吸われたら、名前が余る」
彼女は頷き、パンをもう一口かじる。
「じゃあ、その日までは、鍋番もお願い」
「鍋番は、王の職ではない」
「裏王の職よ」
焚き火が小さく笑い、鍋の蓋が控えめに鳴った。
夜。導灯に火が入る。
“標準灯”は顔を読める明るさで、誰でも芯を替えられる。
相場竿は札を外して眠り、歌簿は紐で束ねられ、光箱は封の上で月光を弾く。
眠る前、板の端に小さな余白を作って、こう書いた。
〈“スロー”の定義(第零版)
見える/測れる/歌える/誰でも
——額より、順序。威圧より、再現。
明日もこの速度で〉
蜂が一匹、導灯の光に触れてから巣へ戻る。
静けさは、今日も少し戻った。戻るたび、暮らしの遅さが強さに変わっていく。
翌朝の掲示は、こうなるだろう。
〈明日:刃物なき開戦・王都編(規格の整合と配布)。
“暮らし規格・第零版”を持って、王都の板へ。
手順と歌で、標準を結ぶ〉
——次話予告:「王都規格会議」
(難しい言葉は長持ちする。だから骨三行から始める)