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第1話「断罪の庭と、見えない主権」

 金糸を張った天蓋の下、空だけが質素だった。

「ルーク・アーデン。婚約を破棄する」

 王太子の声は磨かれた刃のように冷えて、広場の石を軽く撫でた。歓声は起きない。人々は、寒いものを前にしたとき特有の沈黙で、視線だけを投げてくる。


 俺は一礼した。

「承りました。では——」


 言い切らず、銀盆に小さな金具を置く。鍬の柄頭に嵌める古い金具で、麦穂と水路の紋が刻まれている。場違いに見えるそれを、数人が眉で笑った。

 笑うのは自由だ。名前を言わなければ、物はただの物だ。

 この国では古くから、王家が機能を失いかけたときだけ、主権を別の手に退避させる仕組みがある。儀式は地味で、合言葉もなく、ただ手順が伝わる。

 人はそれを、気軽に「裏天皇」と呼ぶ。


 俺が顔を上げると、葡萄色のドレスの女が目に入った。エリス・グラン。世間では“悪役令嬢”という便利な言葉で括られている。彼女は王太子に書類を渡し、こちらを見ずに、ほんのかすかな首の振りで合図した。

 ——急くな。

 頷いて、式次第を崩さずに歩き出す。誰かが小声で「田舎者が鍬でも持ち出したか」と言った。合っているところもあるし、まるで外れているところもある。


 宿に戻ると、女将が湯気の立つスープを置いた。

「顔色は悪くないね」

「静けさを少し持って帰りました」

「戦になるのかい」

「いいえ、言い訳が多いだけです」


 翌朝、辺境へ向けて荷馬車を出す。荷は、種芋、井戸の滑車、古い秤、木製の掲示板の板、そして薄い帳面一冊。

 街道の関所で止められた。番人の眼は剣ではなく財布の厚みに合焦している。

「通行税は今月より臨時で増額だ」

「お達しの印章を」

 机には三つの印章。すべて本物の顔をしているが、日付の刻みが合わない。

 荷台から塩袋を一つ降ろし、手のひらで重みを測る。——増えている。港からここまでで袋の中身は“太った”。

「裏門の板が緩んでいます」

「雨でな」

「雨は板ではなく、人の口を緩ませます」

 番人の喉仏が上下した。

「税は正式額に戻しましょう。あなた方の俸給は来月から遅れない。秤を市場に置きます」

「なぜ分かる」

「手順です」


 関所を抜けた夕刻、空は藍色に沈み、辺境の村の煙突がひと筋上がった。井戸の蓋は軋み、畑は痩せ、子どもはよく眠る。良い村だ。

 最初に立てるのは家でも畑でもなく、掲示板。板に三行、太い字で書く。

〈今週:渡し賃は据置/夜警二名を募る(麦二束支給)/秤は“市の真ん中”に置く〉

 噂は踊る。掲示は止まる。止めたところから、物事は動き始める。


 焚き火の脇で帳面を開く。

 在庫:塩二十袋/穀六袋/油一瓶。

 人:夜警候補三名/吟遊詩人一/渡し守一。

 噂:通行税“臨時”/市場“特別枠”/聖女“断罪”。

 対策:公開計量/入札/毎市報告。

 武器は持たない。順序だけを揃える。


 夜半、伝書鷹が影を落とした。筒から落ちた紙片に、簡素な文字。

〈灰宰相派、穀倉の目減り“天候由来”と説明。印章混在。王都の物価、塩より先に蝋が上がる〉

 蝋が先か。夜道が暗くなれば、悪い手は見えやすくなる。

 焚き火の火を細く絞る。節約ではない。長く照らすための調整だ。


 翌朝、村の井戸端に秤を据え、穀袋を一つずつ量った。重さを板に記し、読めない者のために声にする。

「十五。十四と三分の二。十四。……十四?」

 穀袋は出所ごとにわずかに痩せる。誰がどこで摘んだか、数字が地点を指差していく。

 その日、市の日に合わせて“民会”を開いた。名ばかりの役人を招く必要はない。来たいなら来ればいい。

 渡し守の老人が前に出る。

「夜道が暗い。若いのが怪我をした」

「灯りを増やしましょう。費用は入札。油は村で買います。値は今日決めます」

 掲示板に新しい板を足し、入札の要項を書いた。白い木肌に墨が吸い込まれていく。

 吟遊詩人が笑う。

「詩にはなりにくいね」

「詩になる頃には、面倒が減っているのが理想です」


 昼下がり、エリスからの伝文が届いた。予想より簡潔で、丁寧な字だった。

〈断罪の根拠、灰宰相派の提出書類に“昨年様式”混入。印章不備。公式回覧を近日取り下げ予定——ただし、内々に留められる恐れ〉

 内々に、か。

 俺は鍬を肩に掛け、掲示板の横へもう一枚、板を増やす。

〈明日、市の初めに“公開計量”を行う。秤は誰のものでもない。数字は皆のもの〉

 数字を皆のものにした瞬間、嘘は居心地を失う。


 夕刻、子どもが焚き火の前で眠り、犬が丸くなる。空は赤から群青へ、群青から黒へ。光が落ちるほど、星は増える。

 俺は柄頭印を掌で転がし、鍬の柄に嵌め直した。

 この国は今、表で祝辞を言い、裏で帳尻を合わせようとしている。

 やり方は知っている。祖父が教えてくれた。

 合言葉はない。ただ、手順がある。


「静けさを、取り戻す」


 声に出して確かめる。言葉は作業の前に置くと、道具になる。

 辺境の夜は深い。深い夜ほど、細い作業の音が遠くまで届く。


 ——次話予告:公開計量、誰が怖い?(答え:嘘と怠慢)

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