婚約破棄されてからが幸せの始まり
今年の社交シーズン初めての夜会は誰も彼も春の訪れを喜ぶように華やかな装いで、最新の照明器具や飴細工はキラキラと光を増幅させる。
久々の再会を喜ぶ声や楽しげの会話が溢れる中、突如上げられたその声は穏やかな空間を引き裂いた。
「アリア、君との婚約は破棄する!」
張り上げられた声に、周りのざわめきは水を打ったように静かになった。
声を上げたのはアリアの婚約者で。
彼の横にはあどけない雰囲気の女性がぴっとりとくっついていた。
「理由を、お聞かせいただいても?」
なぜわざわざこんな公の場で、と呆然と婚約者を見つめるアリアに、婚約者はその灰色の目に見下したような色を乗せた。
「君は僕に寄り添うことすらしなかったからだ」
婚約者の隣にいる幼稚な雰囲気の女性が先ほどまで以上にみっちりと婚約者にひっつく。
強調された胸の谷間に婚約者がチラリと目をやるのが悲しい。
ああ、やっぱり娯楽小説は正しい。
男はココロの寄り添いよりもカラダの寄り添いなのだと娯楽小説は言っていた。
侍女には「低俗すぎるので没収します」と取り上げられてしまったけれど。
「アリア、君との婚約は破棄し、ウィンバー伯爵家次男オウルは子爵令嬢リコリスに真実の愛を捧げることをここに誓う!」
目の前で婚約者、いや元婚約者となろうとしているオウルがひっつき令嬢と熱い抱擁を交わし、その勢いで令嬢に口付けする。
様子見をしていた周りの人たちが今後の展開を固唾を飲んで見守っている、というか野次馬根性で待ち望んでいるのがわかる。
おそらくここでアリアに求められているのは涙の退場だ。
でも。
ただ泣いて逃げるのは伯爵令嬢として、そして、ウィンバー伯爵夫人の未来の義娘としては許されない。
「真実の愛のご発見、おめでとうございます、オウル様」
大丈夫。
これまでも、どんな噂話を聞かされ侮られたって笑ってきたのだから。
笑って。
たとえその噂話が真実であることがこの公の場で証明されるという辱めを受けたとしても。
「リコリス様、オウル様とどうぞお幸せに」
声が震えないように、喉を詰まらせないように、ゆっくりと祝福の言葉を述べる。
この場で自分を被害者の立場にすることは周りから侮られると言うことだ。
だから、対等に。
むしろ自分の方が上に立っている雰囲気を出して。
にっこりと伯爵夫人仕込みの上品な笑みを浮かべて、丁寧に、いつもよりもゆっくりとカーテシーをする。
逃げるんじゃない、ただ、その場の三文芝居に飽きてしまっただけ。
飽きたから帰るだけ。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
この世界に誰も味方がいないような雰囲気にのまれて泣かないように、奥歯を噛み締めながらゆっくりと頭を下げる。
「僕からもおめでとうを言わせてもらうよ、オウル」
突然、下げていた頭の上から聞こえてきたのは、聞き慣れた声だった。
「兄上?! どうしてここに」
「そりゃあ社交シーズン開幕の夜会だからね。ちょっと領地の方が心配だったけれど、来てよかったな」
品を損なわない程度に急いで顔を上げる。
「僕は間に合ったのかな、アリア嬢」
白に近い金髪にオリーブグリーンの瞳。
いつもどこか楽しげに話しかけてくれるその声はこんなときであっても変わらない。
「シュレット様……」
ウィンバー伯爵家で不在がちなオウル様の代わりに話し相手になってくれた、オウル様のお兄様。
そして、アリアにとっては幼い頃の初恋の人。
「さあ、踊ろうアリア嬢。今日は僕が君の王子様だよ」
まだオウル様との婚約が決まる前、シュレット様をシュレット兄様と呼んでいた頃。
大人たちが素敵な服を着て夜会で踊ると聞いて羨ましくて。
わたしも絵物語の中のお姫様みたいに踊りたいと駄々をこねた日、シュレット兄様は「踊ろうアリア姫。僕が君の王子様だよ」と言って手を差し出してくれた。
踊り方なんかわからないわたしはチグハグに跳ねて回って、シュレット兄様はわたしを高く持ち上げてクルクル回してくれたのだった。
「はい、シュレット様」
シュレット様に差し出された手に自分の手を重ねれば、自然に口角が上がってしまう。
わたしはもうチグハグに跳ねたりしないのに、シュレット様はまるで宝物を囲い込むように過保護にリードを取ってくれた。
「わたし、レディとしてちゃんと踊れるようになりましたの」
「うん、知っているよ。弟と踊る姿を見ていたからね」
楽しくなってくるりくるりと何度も回って、少しでも軸がぶれそうになればシュレット様が支え直してくれる。
「楽しいね、僕の可愛いアリア姫」
「もう、シュレット兄様ったら」
「はは、久々に聞いたなアリア嬢の『兄様』。最近ぜんぜん兄様って呼んでくれなかったでしょう」
「それは……」
言ったらきっと、抑えきれなくなってしまう。
でも、言ってしまいたい。
あのね、シュレット兄様。
わたしは……。
曲が終わる。
勇気が出ないアリアは口をつぐむことを選んで、にこっと笑った。
「ありがとうございました、シュレット様」
礼をして、あとは帰るだけ。
そう思ったアリアをシュレットが引き寄せる。
「もう一曲。ううん、あと二曲踊ろう」
一曲なら社交辞令。
でも、何曲も同じ相手と繰り返し踊れば、それは親密な関係を意味してしまう。
自身の弟の元婚約者の令嬢とそんなことをした場合に周囲に与える影響をシュレット様が知らないはずないのに。
困惑するアリアの手をぎゅっと握ってリードを始めるシュレットは、スローペースのダンスのためといった雰囲気でアリアの耳に口を寄せる。
「今日こうなること、実は予想していたんだ」
「予想……?」
「この前、君がうちに来てくれたときからね。オウルは君が来てくれたっていうのに顔も出さずに……むしろ顔を合わせないようにずっと外出していただろう。だからちょっと探りを入れてみた」
シュレット様との距離が近い。
透き通るような爽やかな香りと何か穏やかなものがまじりあった匂いがして、これがシュレット様のにおい、と認識した瞬間どうしようもなく恥ずかしくて顔に熱が集まる。
「さては聞いてないね、アリア嬢? 仕方のない子だな」
シュレットがくつくつと笑うのに、アリアはちらりと目線だけ上げる。
「だって、なんだか恥ずかしいんですもの」
「恥ずかしいことなんてないさ。だって僕らは婚約者なんだから」
「えっ」
「ほら、やっぱり聞いてなかった」
いま、シュレット様はなんて言った?
婚約者?
わたしと、シュレット様が?
「うちの父上も母上も、たいそう君を気に入っていてね。オウルの火遊びが本気に変わったのが確定した時点で、婚約者の変更をしたんだよ」
婚約者の変更?
あの、一応規定はあるけれども使った人を見たことのないあの制度?
政略結婚を成立させようとする家同士が、家を繋ぐことを重視するために結婚する当事者を兄弟姉妹入れ替えっこする、あの錆びついて動くかわからない器械のような制度?
「信じてないね? ほら、忘れているかもしれないけど、もともと君の結婚は、僕たちの領と君の領の関係性を強めるための政略結婚だから。それでなんでアリア嬢の婚約者がオウルに決まったのかっていうのが、これがまたオウルのやらかしがきっかけだったわけで」
はて。
アリアの記憶の中には、ある日突然お父様が「アリアの婚約者が決まったぞ! ウィンバー伯爵家のオウル君だ! アリアも一緒によく遊んでいただろう、これからも仲良くな」と言い出したことしか記憶にないが。
少し速度の上がった曲に合わせてくるくる回ってみる。
少し軸がぶれそうになったタイミングでまたシュレット様が支えるようにリードしてくれた。
「うん、やっぱり、左足を軸にして外側に回るとバランスを崩すね」
自分でも気づいていなかったステップの癖を指摘されて少し恥ずかしい。
次は気をつける、と意気込むわたしの頬をシュレット様がすっと撫でた。
「もう3年前だったかな、庭を散歩中に蜂に追われたことがあったよね。君はそんなに怖がっていなかったけど、弟は化け物でも出たかのように取り乱して走って」
「ああ、そんなこともありましたわね」
なんだか散々な思いをしたような記憶が薄らある。
「あのバカ弟は、逃げる中でよりにもよって君を邪魔だと突き飛ばして池に落として。君の左足首、突き落とされたときに池の岩に強く当たったか何かしたんだろう。普通に歩けるようになるまで季節二つ分はかかったと聞いたよ」
「そんなことも、あったかもしれません」
わたしはそれよりも、婚約者がオウル様に決まったショックの方が大きかったのですけれど。
そう、あれはひどかった。
家に帰ってゆっくり療養を……と思っていた矢先の婚約の知らせ。
わたしはシュレット兄様が好きなのに。
ずっとずっと、シュレット兄様のことが好きだったのに。
でも、自分も貴族令嬢だから、いつかは政略結婚をすると知っていたし、分別良くすべきだってわかっていた。
だから何も言わなかった。
でも、それでも、ひとつだけ些細な反抗をしようと思った。
シュレット兄様の「にいさま」が親愛の呼びかけでなく「義兄様」になることへの抵抗として、その日からアリアはシュレット兄様をシュレット様と呼ぶようになったのだ。
「我が伯爵家としては、家のつながりも必要だし、アリア嬢への詫びも必要だと、そうして決めた君と愚弟の婚約なのに、あれがあんなんだと君への詫びにならないだろう」
「では、シュレット様はわたしへのお詫びとして、わたしと婚約してくださるということなのですね」
そこに愛はなくて、ただ義務でアリアと結婚しようとしているのなら嬉しくない。
シュレット様がこちらを向いてくれない結婚生活なんて、きっと、とてもさみしい。
それならまだ、好きでもない人と結婚して愛されない方がずっとまし。
笑顔が維持できなくなってきたアリアは目線を下に落とす。
そんなアリアの背を、シュレットはぽんぽんと叩いた。
「何か勘違いしているね、アリア嬢?」
「なにがです」
「ほら、目線を上げて、僕を見て」
言われるがまま渋々顔を上げると、シュレット様はやっぱり楽しそうな笑みを浮かべていて。
オリーブグリーンの目はやんわりと下がった目尻のせいかとても優しい。
「僕はずっと昔から君が好きだったよ、アリア嬢。僕の可愛いお姫様」
曲が終わりに向かう。
礼をするアリアの手を、シュレットは再び握った。
次の曲が始まる。
「いろんなものに目を輝かせる君も。どんな状況にあっても美味しいものを堪能する君も。綺麗なものを大切に思い出にしまいこむ君も。ちょっと変な方向に頑張っているときもあるけど、いつも一生懸命な君も。全部、好きなんだよ」
シュレットのオリーブグリーンの目がまっすぐにアリアの目を射抜く。
「ほら、聞かせて。君は僕のことは嫌いかい?」
「嫌いだなんて!」
思わず大きな声が出てしまってハッとする。
破顔するシュレットにアリアは少し負けた気持ちになった。
でも、負けてみてもいいかと、思えてしまったから。
「わたし、ずっとずっと、お慕いしていたんですの。でも、オウル様と婚約した以上はシュレット様のことはあきらめようと、わたし、いっぱいいっぱい頑張って」
「僕はね、あきらめるためには頑張れなかったんだ」
シュレットがひょいとアリアを持ち上げる。
持ち上げられたままくるりと回るのがまるで幼い日の遊びのようで、アリアの顔に自然な笑みが広がる。
「愛しているよ、アリア嬢。君を手に入れるために尽力した男を憐んでくれるかい」
答えはもう決まっている。
「大好きです、シュレット様。これからもずっとずっと、愛しています」
ダンスを言い訳にぎゅっと抱きつくアリアを、シュレットもまた強く抱きしめた。
後日談
「結局、アリアお嬢様ってどこまでが本気だったんですか」
「だから、すべてよ。シュレット様には『婚約者』への一途さや少しお馬鹿な可愛らしさを見て欲しかったし、それに、あの胡散臭い幸せになる代物に万が一でも効果があったらオウル様が真実の愛を選んでくださると思ったのよ」
「……まだ残ってます? 幸せのキラなんとか。効果がありそうなんで」
「それよりも、うちの領で新しく産出したアリアモンドの方がいいと思うわ。原石をさしあげた伯爵夫人が社交界で話題総なめ、お父様には問い合わせがジャンジャカジャンで、わたしの評判も鰻登りよ。シュレット様との婚約のダメ押しにもなってくれたしね。加工時に出る屑石を『幸せのチカキラストーン』とでも銘打って売り出そうかしら。日頃のお礼にプレゼントしましょうか?」
「またそうやって私を使って使用人階級に売り込もうとなさる……」
「いいじゃないの、一緒に幸せになりましょうよ」