第6話『道なき道と野営の知恵』
谷あいの道を抜け、斜面の林へ足を踏み入れると、風の流れが変わった。葉が静かに舞い、地面には踏み跡らしき線もなかった。
「この辺り、地図には何もないよね」
リアナは立ち止まり、白地の紙面を見下ろした。そこには何の線も引かれていない。ただ余白だけが、行く先の不確かさを物語っていた。
ホシがふと耳を立てる。二本のふわふわの尾を揺らしながら、森の奥へと進み出した。
「ホシ、また……」
リアナとエルミナは顔を見合わせ、そっとその後を追った。
尾根に差しかかったとき、不意に声がした。
「そこの斜面、昨日の雨で地盤が緩んでる。崩れてたら危なかったよ」
陽に焼けた上着を羽織った男が、木の根に腰掛けてこちらを見ていた。くしゃりとした茶髪、荷物の束、腰の薬草袋。片手には干した果物をかじっている。
男は立ち上がり、斜面の下へ視線を送ると、ふたりに穏やかに声をかけた。
「気になって声かけたんだ。こんな所で転ばれたら、助けに行くのもひと苦労だからね」
エルミナが少し警戒した面持ちで訊ねる。
「……あなたは?」
「ライロって言う。見てのとおり旅の途中さ」
彼は視線で斜面の向こうを示しながら、ゆっくりと立ち上がった。
「少し回り道にはなるけど、こっちの尾根道のほうが安全だよ。今の季節なら薬草も見つかりやすいし、案内しようか?」
リアナとエルミナは目を見交わした。見知らぬ相手だが、挙動に怪しさはなく、口調にはどこか誠実さがあった。
「……お願いできますか?」
リアナの言葉に、ライロは「任せな」と笑った。
踏み跡程度の細道を歩きながら、ライロは色々なことを話してくれた。
「足の裏をべたっとつけず、親指で地面を押すと疲れにくい」
「風の音が変わったときは、近くに獣がいるかもしれない。音に耳を澄ませてごらん」
「生えてる草の種類が変わったろ? あれはリツユグサ。水場に群れる草だ。涼しいところが好きなんだよ」
ふたりは言葉を聞きながら、メモを取り、地図に印をつけていく。
リアナはふと気づいた。彼の語る言葉には「教える」という力みがない。ただ、自分の目で見たものを自然と共有しているだけのようだった。
リアナがメモを取りながら首をかしげた。
「……どうしてそんなに薬草に詳しいんですか?」
「昔、薬を売りながら旅してたからさ」
斜面を抜け、谷間の平地に出ると、ライロが立ち止まった。
「今日はここがいい。風が上を抜けるし、水場もある」
少し開けた草地に倒木が重なり、自然な風除けとなっている。近くには岩肌から染み出す清水もあった。
「焚き火、頼むな」
ライロはそう言うと、地面に小石を並べ、周囲の乾いた枝を集めた。石を擦って火を起こすその手際に、リアナは目を見張った。
「手際が……すごい」
「長く旅してると、火が友達みたいなもんさ」
サシマギの葉を焚き火にくべると、ほんのりとした清涼な香りが漂った。煙に混ざるその匂いは、空気をすっと軽くするようだった。
その後、干し肉と乾燥野菜を煮込んだ簡単な夕食が完成した。味付けには先ほどの草が刻まれて使われていた。
エルミナが香りを嗅いで首をかしげた。
「この香り、薬草……?」
「正解。でも、薬としてじゃなくて、晩飯の相棒さ」
ライロはにやりと笑った。
焚き火を囲んで、ふたりは話を聞いた。
彼はかつて旅の薬売りだったこと。だが、ある時、山中で迷い倒れた旅人に薬を届けたが、間に合わなかったこと。それ以来、「薬を売るだけじゃなく、生き延び方も伝えたい」と思い至り、案内人のような暮らしに変えたこと。
リアナは、何も書かれていない地図の空白を思い出していた。
「地図にない道にも、こうして誰かが生きてるんだね」
呟いた言葉に、ライロは静かに頷いた。
「地図があるから、目の前の景色をもっと感じられる。線の奥にある風や匂い、そういうのが旅の面白さなんだよ」
ホシは火のそばで丸くなって眠っていた。ふわふわの尾がゆっくりと揺れている。
その夜、星空の下。焚き火は小さく燃え、リアナは今日の出来事を一つひとつ思い出しながら、そっと地図に新たな線を加えた。




