第28話『声と灯り』
灌木帯を抜けると、道は下りに変わった。両側を岩に挟まれ、空は細く、湿った空気が流れている。足元には乾いた草と、小さな白いキノコがぽつぽつと生えていた。
リアナは立ち止まり、周囲に耳を澄ませる。
「……音が変だ」
そう言って、手を叩いた。乾いた音が、石に跳ね返るようにして返ってきた。
エルミナも声を出してみる。
「ホシ、こっちおいで」
ホシが小走りに駆けてくる。その足音までもが、やけにくっきりと響いていた。
リアナは記録帳を開き、余白にひとこと記す。
※反響あり?
けれど、それだけでは記録にならない。返ってくる音に法則はなく、場所によって響き方が違っていた。
「ここだと、音が返ってこない」
谷の端で試したエルミナが言う。リアナは足を移し、いくつかの場所で音を確かめた。
真ん中では響く。でも、少しずれると吸い込まれるように消えていく。
「……不安定すぎて記録にならない。形が見えない」
リアナは唇をかんで言った。
「ホシ、さっきから落ち着かないみたい」
エルミナが指をさす。ホシは谷の中を行ったり来たりしていた。けれど、迷っている様子ではない。時おり立ち止まり、壁に鼻を向けてから、また数歩進む。どこかを探しているようだった。
リアナはその後をついていった。
やがて、岩の間に自然と足が止まる。壁が内側へと緩やかに湾曲し、天井はすぼまっていた。ホシはそこでしゃがみこみ、耳をぴくりと動かす。
リアナも、ためしに声を出してみた。
「おーい」
その声が、ふたつ、みっつと、時間を置いて返ってきた。
岩に沿って滑るような反響だった。
「……ここだけ、明らかに違う」
岩の角度、空間の広がり。響き方が規則的だった。
リアナは頷き、記録帳を広げる。
「音そのものは記録できない。でも、“音が返る形”なら描けるかも」
そう言って、断面図のような線を引きはじめた。
***
谷を抜ける手前、岩と岩の隙間に、人影が立っていた。
陽の傾きが岩壁を照らし、その輪郭がやわらかく浮かび上がる。
リアナがそっと近づくと、その影が振り返る。
群青と白の装束。長い黒髪。両の手は空で、何も持っていなかった。
「……イーリス」
名を呼ぶと、イーリスはひとつ頷いた。
「音が、呼んでた」
それだけ言って、岩の向こうを指し示す。ふたりと一匹は何も言わずについていった。
案内されたのは、三方を岩に囲まれた小さな窪地だった。天井は傾き、風は静か。
声がこもり、壁には淡く陽が反射していた。
イーリスは、窪地の中央に立ち、岩壁に手を当てた。
「ここは、形が音を返す。開きすぎると逃げる。狭すぎても響かない。ちょうどよい形があるの」
「音が残るんじゃなくて、響く形があるってことか」
リアナは言いながら、天井の傾斜を測るように目を動かす。
「全部の音が返るわけじゃない。形に合わない音は、ただ散っていく」
イーリスの言葉を聞き、リアナは頷く。
「なら、記録に残すのは“音そのもの”じゃなくて、“音を返した構造”。それなら、描ける」
彼女は、記録帳に断面図を描き、傍らに注記を添えた。
※天井傾斜あり。音返る。形の記録とする。
エルミナは、壁に映る陰を見つめながら言った。
「光も、形に沿って広がるんだね」
「うん。音も光も、形に従う。だから、形が残る」
リアナは記録帳を閉じ、火を起こす準備を始めた。
***
日が沈みかけたころ、窪地には小さな焚き火が灯った。
ホシはそのそばで丸くなり、エルミナは薪の加減を見ながら火を整えている。
イーリスは岩の壁際に座り、静かに目を閉じていた。
リアナはひとり、記録帳を開いていた。今日描いた断面図と短い注記。その線に、今の自分が映る気がした。
「音は消える。でも、返ってきた場所なら、地図にできる。……それでいい」
小さくつぶやいて、そっとページを閉じる。
火の輪の中、イーリスの姿は揺れていた。静かに、当たり前のように。
誰も聞かなかったが、明日もまた一緒に歩くことに、違和感はなかった。




