第27話『気配と足音』
朝の光が、まばらな木々のあいだから差し込んでいた。
丘を越えた先には、なだらかな傾斜と灌木の広がる土地があった。地面は乾いており、木の根が浅く這っている。見通しは悪くないが、目印になりそうな岩も塔もない。
リアナは歩を止めて、ゆっくりと深呼吸した。
「ここ、線が引きづらいな……」
彼女の視線は、地面と木々の間を忙しく行き来する。草の密度はまばらで、踏み跡も薄い。灌木の枝が進路を制限するわけではないが、明確な道筋を示してもいなかった。
後ろからエルミナが追いついてくる。ホシはすでに数歩先で立ち止まり、耳をぴくりと動かしていた。
「風はないけど、方向感がつかめないね」
「うん。糸を張るにも、始点と終点が見えづらい」
リアナは測量糸の端を指に巻き取りながら、いつものように周囲の構造を探す。しかし、岩の並びも影の伸び方も、いつものような“記せる構造”にはならなかった。
「でも、道はある。ホシがまっすぐ進んでる」
灌木の間をすり抜けて歩くホシは、一定のリズムで立ち止まり、また進む。その足取りは迷いがなく、むしろ何かを確かめるような間があった。
「止まる場所、何か共通点あるかも」
リアナは測量糸を腰袋に戻し、ホシの足元へ視線を落とした。そこにはわずかに沈んだ土、折れた草、そして薄く広がった落ち葉の層があった。風がないのに、落ち葉の位置が微妙に偏っている。
「……踏まれた跡?」
しゃがみ込んでよく見ると、草の葉先が折れたまま戻っていない。ほかの場所と比べると、その戻りが遅い。明確な道ではない。でも、誰か――あるいは何かが、通っていたのは確かだった。
「ホシは匂いで道を見てると思ってたけど……もしかして、“痕跡”のある場所を選んでる?」
リアナが顔を上げると、ホシはまるで応えるようにしっぽを揺らし、次の一歩を踏み出した。
午前中いっぱい、三人は灌木帯の中をゆっくりと進んでいった。リアナはホシの止まった地点を少しずつ地図に写し取り、印を打つ。まだ線にはならないが、点は確実に増えていた。
エルミナはときおり立ち止まり、草の観察をしていた。
「これ、ハスミ葉に似てるけど、葉先がすこし割れてる。香りも弱いし……」
記録帳を開き、筆を走らせる。
※類似種。香気薄。採取見送り。
「使えなくても、記しておくよ。次に見たとき、迷わなくて済むように」
彼女はそう言って立ち上がり、灌木の枝を避けるようにしてリアナのあとに続いた。
「さっきの場所、踏まれて時間が経ってるのかも。葉が折れてても、表面が乾いてた」
「乾き具合と葉の戻り方、時間の指標になるかもね」
リアナは頷きながら、ふと手帳の余白に簡単な注釈を書く。
※通行痕跡は葉の復元速度、土の締まり具合、落ち葉の偏りに注目。
「これ、ちゃんと項目にして整理したいな。曖昧に見える場所こそ、構造が隠れてる」
その言葉に、エルミナは微笑みを浮かべた。
「リアナらしいね。測れないものを、“測れる形”にしていく」
昼を過ぎると、少しだけ空が広がった場所に出た。灌木が途切れ、低い岩と傾いた木々が斜面を縁取るように立っている。風はほとんどなく、陽差しも柔らかい。
「このあたり、昨日の“交影点”の方角に近いかも」
リアナは方位磁針を取り出し、ざっと周囲を確認する。方角は西北西。進むべき方位の延長線にあった。
ホシがまた、ぴたりと立ち止まった。そこは、倒木と岩の間にできた自然のくぼみだった。
「……やっぱり」
リアナはしゃがみ込み、測量糸を伸ばして地形を簡易的に測った。地面の微かな凹凸、草の折れ方、落ち葉の偏り――全てが、人が通った後に似ている。
「“気配”って言葉、便利だけど記録にならない。でも、“通った痕跡”なら測れる」
リアナは手帳を取り出し、小さな点を打った。
通行痕1
その横に、「葉折・乾中/落葉偏西/土柔」と補記を加える。
「こういう点が増えたら、線にできる。見えない道を、“構造で見えるようにする”ってこと」
エルミナも隣にしゃがみ込み、そっと言った。
「草もそう。見た目じゃ判断つかない時、土や香りの残り方で見えてくる。記録って、そういうことだよね」
影が伸び始める頃、小さな岩陰にちょうど良い場所を見つけた。灌木が風を和らげ、地面もほどよく乾いている。ここを今夜の野営地とすることに決めた。
リアナは焚き火の傍で地図帳を開き、今日記した点を線で結び始める。
「確信はないけど、この線、通れる道として意味を持ち始めてる気がする」
「うん。ホシの足取りと、痕跡の残り方。それが重なってる」
エルミナは、薬草の観察欄に新しい記録を一行加えた。
通行痕の近傍に見られる葉の変化、分類保留。観察継続。
ふたりは焚き火を囲みながら、互いの記録帳をそっと覗き合った。
「今日の地図、形はないけど、条件の集まりって感じ」
「でも、その“条件”が道になる。私たちが今、歩いてきたことが、そのまま記録になってる」
ホシは二人のあいだに丸くなり、尾をくるりと巻いた。ふと耳が動き、短く「キャウ」と鳴いた。
朝露の降りるころ、リアナは目を覚ました。まだ薄暗い空を見上げながら、地図帳をもう一度開く。昨日描いた線をなぞるように見つめる。
「これ、線にしてよかった。目に見えなくても、“意味がある”って言える」
「うん。“通った”っていう事実が、線を引く理由になるんだね」
エルミナは鍋の湯をすくいながら、最後にひとことだけ記した。
記録とは、目印だけでなく、条件の積み重ねでもある。
太陽が顔を出し、灌木帯の影が少しずつ伸びていく。
ホシが先に立ち上がり、軽やかに歩き出す。リアナとエルミナがそのあとを追った。
地図にはまだ、形の整った道は描かれていない。けれど、歩みと記録が重なったその線が、確かに“道しるべ”となっていた。




