第25話『別れと約束』
焚き火の跡は、まだほんのりと温かかった。
湿った草の上に並べた石が、わずかに灰を抱えている。煙はもう上がっていなかったが、昨日そこに火があったことは、見ればすぐにわかる。
リアナは足元にしゃがみこみ、地図帳を広げた。風は静かで、測量糸を使うにはほどよい条件だった。けれど今日は角度を測る必要はない。彼女が開いたのは、まだ点も線も打たれていない白地のページだった。
木炭の先を紙縁で軽く整え、小さな点をひとつ記す。
位置は正確ではない。方位も仮だ。けれど、そこに印をつける意味があった。
その横に、細い文字でこう書き添える。
星標一
測れる構造ではなく、起点となった出来事に対して記した点。
リアナは地図帳を静かに閉じ、鞄にしまった。
ホシが、まだ冷たい灰に鼻を近づけたあと、音もなく草のほうへ歩き出す。エルミナはその後ろ姿に目をやりながら、記録帳をひらいていた。
採取していない草――昨日見かけたばかりの、それでも記録すべきと判断したもの。葉の形、水気、香りを思い出しながら端に一行を加える。
環境:半湿地/葉表つやあり/日中香弱し/用途不定・記録のみ
名はつけない。使う予定もない。けれど、それでも「あった」ことを確かに残す。
筆を置いたあと、彼女は背負い袋の紐を締め直す。
「……そろそろ、行こうか」
リアナの声に、エルミナが頷く。ふたりと一匹は、尾根道を西北西へ向けて歩き出した。
朝の光は、木々の隙間からまっすぐに差し込んでいた。
道はゆるやかな上り坂になり、やがて木々の背が低くなる。遠くの稜線が見えてくる。
ホシが、ぴたりと立ち止まった。耳をひくつかせ、鼻をわずかに動かす。草むらの中に何かの“残り”を感じ取っているようだった。
「ホシ?」
エルミナが近づく。ホシはしばらくじっと草の間を見つめたあと、またすっと歩き出した。
その足元には、まだ幼い草が一株、低く広がるように生えていた。
エルミナはしゃがみ込み、葉に触れずに様子だけを観察した。
香りはごく微かで、水分が多い。分類にはまだ早すぎる段階だった。
記録帳をひらき、数行を記す。
形:不明確/香弱し/水分多/採取不可/再訪観察候補
「ありがと、ホシ」
エルミナがそう言うと、ホシは鼻を鳴らして先に進み出した。
斜面の途中、苔に覆われた岩が突き出していた。
半ば地面に沈んだそれは、向かって左にくっきりと影を伸ばしていた。
リアナは足を止め、測量糸と方位磁針を取り出す。
影の根元から、先端へ糸を張る。方位は――西南西。昨日、別れた場所とほぼ同じだった。
その先、小さな窪地。落ち葉が溜まっていたが、水の流れはない。
だが形の整い方が、偶然とも言い切れない。
「……方向が取れる」
リアナは地図帳を開き、木炭で点を打った。
交影点
その筆致に迷いはなかった。岩と影、方位と地形。構造が揃っているなら、それは記すに値する。
「誰かが測ってたのかもね」
エルミナが言った。
「かもしれない。でも、今測ってるのは私。だから、残す」
そう言って、リアナは地図にもう一本、細い線を引き加えた。
午後の陽が傾きはじめ、長い影が道の先へ伸びていった。
低木の間を縫いながら歩いていると、リアナがふいに口を開く。
「“星標一”と、“交影点”。両方記して、線をつないだら――なんとなく、地図としての意味が強くなる気がする」
「点があるだけじゃ、まだ迷う。でも、線があれば進める。そんな感じ?」
「うん。記録は点。地図は線。旅はその延長線上、ってことかな」
ホシが先を歩きながら、何かを感じ取ったかのように小さく尾を振った。
夜。火は起こさず、空には星がくっきりと出ていた。
リアナは膝の上で地図帳をひらく。星標一と交影点、そのあいだに細く引かれた一本の線。その線が道かどうかはわからない。けれど、自分が選んだ二点であることは確かだった。
エルミナはその隣で、薬草の記録を見直していた。未分類の観察欄に、わずかに追記を加えただけだったが、それもまた“今日”の記録だった。
「名前があると、忘れない。でも……あまり意味を持たせすぎない方がいいのかも」
「うん。“名づけ”は効能に似てる。確定じゃないなら、避けた方が安全」
言葉にしすぎないことも、記録の一部。
ふたりのあいだに、共有された静けさが流れた。
ホシはしっぽを巻いて眠り、その寝息が、かすかに草を揺らしていた。
朝。露の下りた草を踏みながら、リアナは地図帳を開いた。
前夜に記したふたつの点。そのあいだに引かれた線が、ほんの少しだけ陽の光を反射していた。
「これで、今日の記録はおしまい。……あとは、また歩くだけ」
「うん。記せる場所を、また探そう」
ホシがひと足先に歩き出す。リアナとエルミナがそのあとを追った。
地図はまだ、白い余白を多く残している。けれど、それこそが次の目的地だった。




