第24話『記録と見せなかった地図』
霧が抜けきった朝の道を、ふたりと一匹は歩いていた。
湖を離れたのは、ほんの数刻前のことだった。あの静かな水辺では、何も動かず、何も語らず、それでも確かに何かが記されたような気配があった。けれど今は、森の縁に差しかかり、足元に草が戻りつつある。
傾斜は緩やかで、鳥の声が遠くに聞こえる。ホシは湿った地面を軽やかに歩き、リアナはその背を追いながら測量糸を巻き戻していた。
――そのとき。
「おーい、お嬢さん方!」
聞き覚えのある声が、茂みの向こうから響いた。姿を見せたのは、埃まみれのロングコートと、木の枝をくぐるように肩をすくめた男。ライロだった。
「ひさしぶり……でもないか。なんだか、また会う気がしてたよ」
「……わたしたちも。おはよう、ライロ」
エルミナが穏やかに挨拶を返す。ホシが「キャウ」と一声鳴き、尾を揺らして近づいた。
「見つかっちまったな。いや、見つけてほしかったのかもな」
そう言ってライロは胸元をまさぐり、古びた布に包まれた巻物のようなものを一瞬だけ見せた。
「これ、地図なんだ。……でも、見せるもんじゃない。俺の“見せなかった地図”さ」
言い終えると、それを懐にしまい込む。リアナの目がわずかに揺れた。
「見せないって、どうして?」
「いろいろあるよ。見せたら意味が変わることもある。そういう地図だってある」
それ以上は何も言わず、ライロはふたりの歩調に合わせて歩き出した。
***
森の中腹、焚き火に適した平らな場所を見つけ、三人と一匹は一晩の野営を共にすることにした。
薪を集めて火を起こし、簡単な湯を沸かしながら、各々の記録道具を傍らに置く。リアナは地図帳を開き、ライロの言葉を思い返していた。「見せなかった地図」――それは記録されながらも、共有されないもの。
地図は、誰かに渡すためのものではないのか。そう思っていた自分にとって、それは少し異質な響きだった。
「……ライロ、その地図、いつ描いたの?」
「若い頃さ。まだ旅を始めたばかりの頃。あっちこっち歩いて、いろんなもん見て……でも、それがなんなのか、わからなかった」
ライロは湯気の上がる鍋を見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「記録ってのは、事実を写すだけじゃ足りない。けど、気持ちを書きすぎると、記録じゃなくなる。だから、言葉にできないまま残した場所がある」
「それ、記録じゃないよね」
リアナがはっきりと言った。視線は手元の地図帳から逸れず、火の明かりに照らされたページの端をなぞっていた。
「記す必要があるなら、必ず記す。必要がないと判断したら、記さない。私にとって地図は、それだけのもの」
「ずいぶん、はっきりしてるな」
「記録だから。どこにいて、どこへ進むかを示すために描いてる。誰かに見せるかどうかは、そのあと」
焚き火の中で、枝がぱちりと音を立てた。
「でもさ、そこに誰かがいたって、忘れたくないこともあるだろ」
ライロが言うと、リアナは少しだけ顔を上げた。
「忘れたくないことは、記録する。必要なら、構造を見つけて線にする。見えないなら、記録しない。それだけのこと」
エルミナがそっと言葉を継いだ。
「私も、草は使わなくても記すよ。あったこと、見たこと。それが後で“必要になるかもしれない”から」
「へぇ。おふたりさんは、筋が通ってる」
ライロは笑ったが、その瞳はどこか、遠い昔を思い返しているようだった。
***
ホシが突然、ふらりと立ち上がった。
焚き火の明かりの届かない少し離れた場所。静かに草の間を抜けて、木の根元に腰を下ろす。リアナはそっと立ち上がり、その様子を追った。
そこには特に目立ったものはない。ただ、わずかに地面が窪んでいて、木の枝が空に向かって伸びていた。それだけの場所だった。
でも、ホシはそこにとどまり、じっとしている。
「……ここ、何かあったのかな」
リアナは鞄から測量糸を取り出し、簡易的に地形を測った。木の影、地面の傾斜、落ち葉のたまり方――わずかな情報をつなげて、「構造」を見つけようとする。
記録とは、“書くこと”じゃない。“書ける形を見つけること”。それが自分の役割だと、リアナは静かに再確認する。
***
翌朝、火が小さくなった頃、ライロは最後の湯をすすりながら立ち上がった。
「さて。俺は、ここから違う道を行くよ。……また、どっかで」
「うん。また、ね」
リアナは答えると、地図の一角に小さな点と線を描いた。位置は定かではない。でも、昨夜の焚き火と木の配置、そしてホシの座っていた場所。その“記しうる範囲”だけを、慎重に線にした。
「書けないものにこだわらない。記せるものだけを選び取る。それが、記録の責任」
地図は、空白を埋めるものじゃない。空白があることを、確認するためのもの。
リアナはその地図を静かに閉じ、鞄にしまった。
エルミナはすでに草の記録を終え、小瓶の並びを整えている。ホシは立ち上がり、草の間を軽やかに歩き出した。
「進もうか。次の記せる場所へ」
リアナが言うと、エルミナも頷いた。
ふたりと一匹は、木々のあいだから差し込む朝日を背に、次の道を歩き出す。
地図にできるものを探しながら。地図にできないものを、きちんと見極めながら。




