第23話『光と道しるべ』
朝の湖は、音もなくそこにあった。
風はなく、水面は一枚の鏡のように張り詰め、空の色と、かすかに残る星の光を吸い込んでいた。
リアナは湖の縁に立ち、四分儀をしまった鞄をそっと閉じる。夜の観測はもう終わっている。それでもなお、朝の光が気になった。
星が昇っていた方角と、今、水面に残るきらめき。その位置関係を、彼女は無意識に比べていた。
「地図にはならないな……これは」
ぽつりと、誰に向けるでもない言葉がこぼれる。
「何が?」
後ろからエルミナが声をかけてきた。足元には、まだぬかるみの残る水辺。手には布片と、見慣れぬ草を包んだ小瓶がある。
「光。揺れてる。実体がない。見える位置が変われば、形も変わる」
「じゃあ、記録はしない?」
「うん、光そのものは。でも……」
リアナはもう一度、水面を見た。木々の影がわずかに揺れ、そこに現れる光の筋が変化していく。
「見える場所と、見える角度。それが決まってるなら、地形には関係してる。なら、そっちだけは記せるかも」
ホシが足元で軽く尾を振った。小さく鳴いたあと、水際まで歩いていき、ある一点にぴたりと座りこむ。
リアナがその方向へ視線を移すと――ちょうどそこからだけ、湖面にかすかな光の筋が伸びていた。
彼女は地面に膝をつき、杭の代わりに小枝を突き刺して目印にする。そしてそこから見える方角を、測量糸で確認した。
「湖の形。岸の張り出し。木の位置。……この反射、偶然じゃないかも」
「光は記録できなくても、それが現れる“しくみ”は記録できるってこと?」
エルミナの問いに、リアナは小さく頷いた。
「この形、似てるのいくつかあるかも」
そう言って、ふたりと一匹は湖を左回りに歩きはじめた。湖畔を一周するには半日以上かかるだろうが、今はそれが一番確実な調査方法だった。
途中、エルミナが足を止める。
「これ……ウツロソウだと思う。湖岸の湿ったところに生えるの、前に図鑑で見たことある」
彼女はしゃがみ込み、指先でそっと葉を持ち上げた。
「少し苦味があるけど、使うと昔の記憶がぼんやり浮かぶって言われてる。はっきりした作用じゃないけど」
「役に立ちそう?」
リアナが問いかけると、エルミナは少しだけ悩んだ表情を見せて、やがて首を横に振った。
「……ううん。作用にむらがあるし、眠くなることもある。ちゃんとした調合には使えない。記録にだけ残すね」
エルミナは静かに小瓶を取り出し、そっと植物を観察してから記録帳に書きつけた。
※記憶促進。採取見送り。
「採らないって決めた草も、記録になるんだね」
リアナの言葉に、エルミナは微笑んだ。
「見て、知って、でも使わない。それもひとつの知識だから」
ふたりは再び歩き出す。
湖畔の形は思ったより複雑だった。入り組んだ湾、角度のついた岩、微妙に高低差のある丘。ときおり、湖の端に石が並んでいるような地形もあり、リアナはその位置と向きを簡易図に描き写していった。
やがて、木陰の下にある小さな岬の先で、またホシが立ち止まった。
その位置から、さきほどと同じような光の筋が湖に現れていた。
リアナはそこに印を打ち、先ほどの地点と結ぶように視線の線を引く。岩の配置と地形を比べていくと、共通点が見つかりはじめた。
「たぶん、反射の起点は岩の角度。あと、向こう側の木の高さが関係してる。ここも、さっきと似てる」
「光は記録できないけど、岩と木は動かないもんね」
「うん。揺れるものじゃない。だから記録に残せる」
リアナは筆を走らせながら、ふと思った。地図とは、こういうものだった。
見え方ではなく、構造を記す。現象ではなく、現象を生む仕組みを書く。光ではなく、光を生む位置と条件を書く。
それだけのことが、今はとても大事に思えた。
歩みを進めていくと、湖の裏手――森が近づく一角で、ふたりは地面に半ば埋もれた杭を見つけた。
それは粗末な木片で、もう朽ちかけていたが、手で掘り返すと、根元に布が巻きつけられていた。
かつて誰かがここに目印を残そうとしたのだろう。布はすでに模様も読めないほどに色褪せていたが、そこに残された意図だけは伝わってくる。
「前にも、誰かが測ってたのかな……」
「きっとそう。この場所は、それだけの意味があったんだと思う」
リアナはその杭を抜かずに、地図の端に小さく印をつけた。
昼が近づき、湖面の光はやがて消えていった。けれど、消えてしまったからといって記録の意味が失われるわけではない。
むしろ――見えなくなるからこそ、記しておかなければと思う。
エルミナが、ふと呟くように言った。
「見えなくなったものの記録が、次の人の“道しるべ”になるってこと、あるんだね」
リアナは頷く。
「うん。だから、光じゃなくて、地形を記す。反射じゃなくて、角度と形」
そう言って、彼女は最後の印をつけ、線を一本引いた。
杭から杭へ、岩から岩へ、固定された“場所”をつなぐ線。
それは光を描いた線ではない。けれど、光が現れる場所にだけ浮かびあがる“線”だった。
「これでいい。きっと、これが道になる」
そう言ってリアナは顔を上げる。線の延長線上に、小さな樹林帯が口を開けていた。
風も音もないその森の入り口に向かって、ふたりと一匹は歩き出した。




