第22話『眠りと芽吹き』
湖だった。
大きくはない。けれど、静かだった。風が吹かず、草も揺れず、水面は一点の波紋すら生まない。空と岸とをそっくりそのまま映し取った鏡のようなその姿は、むしろ記録しづらいほど整っていた。
「……ずっと、こうだったみたいに見えるね」
エルミナが静かにつぶやいた。リアナも無言で頷く。三人と一匹は、昼のうちにこの湖畔に到着していた。湖の縁はなだらかで、地面はほどよく乾いている。倒れた木や岩陰が野営に適した場所をつくっていた。
「誰も歩いた跡、見えない。記録にも、載ってないみたい」
リアナは膝をつき、岸の形を紙に写しながら言った。線を引き終えてから目を上げると、対岸の草むらにホシが鼻を突っ込んでいた。何か匂いを感じ取っているようだった。
「この葉……」
エルミナがしゃがみ込んで、細長い草の先端をそっと指でなぞった。葉の表面に微かな油膜があり、ふわりと甘いような匂いが立ちのぼる。
「……ネムリ葉、かもしれない」
「眠くなる草?」とリアナが訊くと、エルミナは軽く頷いた。
「ただし、強い作用はないって言われてる。煎じると少し、眠りやすくなる程度。でも……」
葉の裏をめくると、そこにも香りが溜まっていた。
「これ、日が高いうちは採らないほうがいい。香りが散ってて、成分も安定してないから。陽が落ちてからの方が、葉が閉じて香気が落ち着く」
「じゃあ、待つしかないね」
リアナは紙を巻き、そっと立ち上がった。
「そのあいだ、湖の東側を見てくる。地形がちょっと変わってた」
「ホシ、ついてってあげて」
「キャウ」と短く鳴いたホシが、リアナのあとを追う。
午後の光は柔らかく、影も短かった。リアナは歩きながら、紙に岸の曲線を描き込み、岩の位置を記し、草むらの広がりを簡単な線で写し取った。測量にはならなくても、「様子を写す」ことには意味がある。
湖の端で、ホシが立ち止まった。岩の上に座り、水面をじっと見つめている。
「……どうしたの、ホシ」
リアナも立ち止まり、そっとその隣にしゃがんだ。水は動かず、空を写していた。だが、ホシの耳だけが何かを聴くように揺れていた。
その後もふたりと一匹はしばらく湖を一周し、陽が傾く頃には野営の準備に戻った。倒木の脇に焚き火を組み、エルミナは鍋に湯を沸かし始める。火がぱちぱちと音を立て、香気の輪郭がゆっくりと立ち昇った。
「ネムリ葉、いまなら採れる」
エルミナはそう言って岸辺に戻り、数枚の葉を慎重に摘んだ。葉の先端だけを切り取り、根は傷つけないように。火のそばに戻ってから、湯の中に滑らせるように葉を入れる。
「これで……少し煮出す。強く煮すぎると香りが飛んじゃうから、軽くね」
リアナは木の器を取り出し、湯が変化していく様子をじっと見守った。葉が湯に沈むと、ふわりと甘くやわらかな香りが立った。どこか懐かしさを含んだ香りだった。
「ちょっとだけ、飲んでみる?」
「うん。旅の途中だし、眠り込まない程度で」
器を分け合い、ふたりはそれぞれ一口ずつだけを口にした。温度も味も、驚くほど軽やかだった。だけど、胸の奥にこわばっていたものが、すうっと解けていく感覚があった。
「……あたたかいけど、眠くはならないね」
「体は眠らなくても、気持ちのほうが少しゆれてる感じ」
ふたりは夜風に当たりながら、それぞれ毛布に包まり、焚き火のそばに横になった。ホシはふたりの足元で丸くなり、尾を揺らしながら眠りの準備をしている。
そのとき、ふたりは同時に目を閉じた。
リアナは夢を見た。
重なった影、光の差し込む窪地。あの台地に立つ自分の背中と、星を見上げる誰かの視線。その視線の先に、測ったはずの星があった。
エルミナも夢を見た。
祖母の声。乾かした草の束、温かな湯気。眠る誰かの隣で、記録帳を開いていた自分。そこにある言葉は、まだ見たことのないものだった。
そして、ふたりは静かに目を覚ました。
「……リアナ、夢、見てた?」
「うん。でも内容は覚えてない。誰かがいた気がしたけど……何を話したかまでは」
「私も。景色だけ、なんとなく残ってる」
エルミナは鍋の横に置いていた記録帳を開き、木炭で静かに書き始めた。
ネムリ葉(夜採取):淡い香気。鎮静作用あり。眠りを誘うが、深くはならず浅い夢を見やすい。
彼女は少し迷ってから、もう一行だけ加えた。
眠りの中に、ゆれがあった。
リアナはその文字を覗き込んで、そっと頷いた。
「記録にならないものも、ある。でも、それも含めて旅の一部って、思える」
ふたりは立ち上がり、湖面に目を向けた。星が水にぽつぽつと落ちてきていた。
リアナは四分儀を取り出し、空の一角を測った。角度を確認し、静かに地図の余白に書き込む。
「補記にしておく。今日はそういう日。ちゃんと残すけど、“眠りの記録”は別にしておきたい」
ホシが「キャウ」と鳴いた。焚き火の灰がぱちりと弾ける音と重なった。
その夜、記されたのは、ほんの数行だった。だけど、それも旅の証だった。
眠りと夢の境界で、ひとつの芽が静かに育ち始めていた。




