第19話『風紋と月の礎』
斜面を越えた先に広がっていたのは、波のような地面だった。
砂と細かな砂利が風に削られて、規則的な模様を刻んでいる。浅くうねるその模様は、まるで水面にできた波のようだった。だが、ここには水などない。風だけが、この地を長いあいだかけて整えてきた。
「……これが、風紋」
リアナが地図を胸に抱いたまま、立ち止まってつぶやいた。視界の先には、いくつもの波が並び、丘の起伏に沿って穏やかに続いている。
ホシがぴくりと耳を動かし、風の通り道の中心へと進む。二股に分かれた尾を低く揺らしながら、何かを探すように鼻をひくつかせる。
「風、強くなってきたね」
エルミナが目を細めながら言った。日差しも乾いていて、砂が肌に軽く触れるようだった。
リアナは地図を広げ、昨日の夜に測った星の角度を確認する。今日の太陽の位置と、ここまでの傾斜。すべてを突き合わせて、静かに頷いた。
「合ってる。方角も、高度も。昨日の線と、ちゃんとつながってる」
彼女の声に、ホシがぴたりと止まり、前足で地面をかくように動かす。
「ホシ?」
近づいたリアナが跪くと、ホシの足元には浅く埋もれた何かが見えた。表面だけが露出した灰色の石。その中央に、わずかながら彫り込まれた跡がある。
「……人工物?」
リアナは慎重に砂を払い落とす。風に削られた跡が深く、輪郭は曖昧になっていたが、確かに誰かが刻んだ線が残っていた。
エルミナも膝をつき、手を添える。手触りが滑らかで、明らかに自然石とは違う。断面の一部が斜めに削れていることから、これはもともと平板の一部だったことがわかる。
「文字……かもしれない」
リアナが指でなぞった跡は、かすれていたが、一部だけ判読できる。
“月”という文字。そして、“北西”という方向を示す印。さらにその隣には、角度を示すような記号があった。
「“星三刻”……?」
エルミナが首を傾げる。
「たぶん、星図の角度の単位。三刻なら、およそ四十五度」
リアナは四分儀を取り出し、石片に刻まれた角度を実際に測ってみた。目盛りを合わせて空を見上げる。かつてこの石板が向いていたであろう方角に目を向けると、そこには低い稜線が連なっていた。
「星の三刻……北西……」
リアナの声が徐々に確信を帯びていく。
「この石、方角を示してたんだ。“月”って文字もあるし、何かの基準点だった可能性が高い」
「じゃあ……」
エルミナが小さく息を呑んだ。
「ここから、どこかを目指してた?」
「うん。まだ全部は読めないけど、星と方角が一緒に記されてるってことは、測量や巡礼の基点だったのかもしれない」
風がまた一陣吹き、石板の砂がさらりと剥がれる。その裏側に、わずかに湿り気を帯びた苔のような膜が張りついていた。
エルミナがそっと手をかざし、指先で触れる。すると、その瞬間――
「……不思議な匂い」
彼女は言った。ごくかすかに、甘く、すっきりとした香気が鼻をくすぐった。湿地の香りとも、乾いた薬草の香りとも違う。はっきりとは言えないが、自然の中にあるはずなのに、どこかで嗅いだことのないような匂いだった。
リアナも鼻を寄せて、軽く深呼吸する。
「……なんだろう。いい匂い、だけど説明できない」
「こういうのって、成分じゃ説明しきれないよね」
エルミナはそう言って小瓶を取り出し、石の隙間に溜まっていた砂を少しだけ入れる。香りが残るかどうかは分からないが、何かの手がかりになるかもしれない。
リアナは地図を広げ、石板の位置を中心に地形と風の通り道を記していく。
「“風の通り道”って、実際には記録しにくい。でも……この石は風が残してくれた、確かな形」
彼女は余白にこう記した。
“風紋地帯:岩の間より石板出土。刻文『月・星三刻・北西』。香気残存。方向固定。由来:月の礎”
そして、追記するようにもう一行書き加える。
※香り不明。記録にないが良香。成分・出所とも不定。
ホシが草むらを歩き、小さな段差の上に跳び乗る。尾をふわりと揺らし、何かを見つめるようにじっと座っている。
リアナもその方角を見た。そこには稜線の先にかすかな光と影。木々は少なく、風だけがゆっくりと流れている。
「今日の宿営、もう少し先にしよう。あの稜線の影になら、風がやむはず」
「了解。風避けがあれば、火も安定するしね」
ふたりは荷をまとめ、石板の位置を慎重に測ってから歩き出した。
背後でまた風が吹く。今度は細かい砂を持ち上げて、さっきの風紋を新しく塗り替えた。けれど、紙の地図には、今日の“残るもの”だけが記されていく。
エルミナがぽつりとつぶやいた。
「見えないのに、確かにあるものって、あるんだね」
「あるよ。私たちが見つけた、ってことがその証拠」
リアナはそう答え、ふたたび北西の空を見上げた。
そこに星はなかった。まだ夕暮れ前の空は青く澄んでいて、光だけが淡く地平を染めている。
けれど、記録はもう始まっていた。角度、距離、香り、石板の文字。そして、風の向き。
“妖精の泉”へと続く旅は、確かに今日も一歩、進んだ。




