第18話『乾いた岩と香りの記録』
湧き止まぬ泉をあとにして、三人は北西へ向かって歩き出した。空はよく晴れていて、風はない。谷底にこもっていた湿気が、背中のほうに遠ざかっていく。
地面の色も変わってきた。昨日まで黒く光っていた土は、次第に赤茶けて、粒の粗い砂利に変わっていた。
「だんだん乾いてきたね」
エルミナが地面を見ながら、そっとつぶやいた。
リアナは立ち止まり、地図を広げる。昨日の星の角度と、朝方の太陽の位置、そしてこのあたりの地形。いくつかを照らし合わせて、今の方角が間違っていないことを確認した。
「北西、合ってる。昨日の記録ともつながるよ」
「よかった」
ホシがふわりと尾を揺らして、先に進む。乾いた草を踏む音が、ぱりぱりと耳に届いた。
草の丈は低くなり、ところどころ地面がむき出しになっている。日差しは強いが、風が通るせいか暑さはそこまで感じない。標高が少しずつ上がっているのかもしれない。
「今日は乾いた土地向けの薬草が見つかるといいけど……あんまり多くはなさそうだね」
「そもそも草自体が減ってきてる。環境に合ったものだけが残ってる感じ」
リアナは地図の記号欄をめくって、乾燥地向けの分類を指でなぞった。日照、傾斜、風、土の色。湿地とはちがって、水の流れの代わりに「陽と風の通り道」を書くことになる。
ホシが道の端で立ち止まり、耳をぴくぴくさせた。
「またなにか見つけた?」
リアナが小走りで近づくと、ホシはちょん、と岩のくぼみに鼻先を向けた。
そこには、平たい岩肌に張りつくようにして、灰緑色の苔のような草が生えていた。葉は小さくて丸く、地面に沿うように密に広がっている。
リアナがしゃがんで覗き込むと、ふわっと香りが立った。
「……匂いがする。甘いような……木の皮みたいな匂い?」
エルミナがそっと指先で葉をなぞった。触っても崩れない。表面はすこし粉っぽく、乾いている。
「知らない匂い。薬草帳には載ってないね。形も、あまり見たことがない」
「採る?」
リアナの問いに、エルミナは首を横にふった。
「やめておく。知らない草は採らない。毒かどうかも分からないし、使う以前の問題だよ」
リアナは周囲の様子を見渡した。陽がしっかり差し込んでいて、風が当たらない場所だった。岩が風を遮っていて、香りがそこに溜まっている。
「風が通らないから、匂いが残ってたのかも」
彼女は地図の余白に小さく書き足した。
“岩陰/風弱く、香り留まる。観察のみ。”
「記録には残すけど、草のことは用途未定でまとめておくね」
「ありがとう。あとで、湿地で採った草とも比べてみる」
そこからさらに登ると、視界が少しひらけた。ホシが先に立ち、乾いた草をかき分けながら進んでいく。
すると、岩棚の下に小さな花が咲いていた。赤紫の花弁が、岩の影からのぞくようにして、いくつも揺れている。ホシがその前にちょこんと座って、振り返った。
「これは……カノメ花だ」
エルミナの目が細くなる。
「防虫に使える草。乾いた土地にしか咲かないから、見つけにくいんだけど、記録帳にはちゃんと載ってる」
岩棚に手をかけて、慎重に登り、根を残すようにしていくつか摘み取る。リアナはその間に、花の咲いていた角度や陽の当たり方、風の通り道を確認していた。
「こういう花って、条件が厳しいんだね。だからこそ、咲いてる場所に意味がある」
「うん。草は場所を選ぶ。でも、それが逆に“この場所がどういう場所か”を教えてくれるんだと思う」
陽が傾いてきたころ、三人は大きな岩陰にたどり着いた。倒れかけた岩がいい風除けになっていて、地面も平らだった。焚き火をするにはちょうどいい。
「今日はここにしよう」
エルミナが枝を集めて火を起こし、リアナは荷を下ろして地図を広げる。
「乾いた土地、風が抜けてる場所と抜けてない場所で、草の種類がぜんぜん違うんだな……」
記録帳に、今日出会った草と地形の対応をまとめる。ホシは焚き火のそばで丸くなり、目を細めていた。
「このカノメ花、乾燥に強いから、旅向きだね。効果も安定してるし、煎じるのも簡単」
「今回の草、風通しの良さと日照が決め手になってる。薬草帳のほう、乾いた土地の草だけまとめておく?」
「いいね。少し分類を変えておこう」
エルミナが記録帳を開いて、草の特徴をまとめはじめる。リアナは星を見上げながら、静かに四分儀を取り出した。
「今日もちゃんと、北西に向かってる」
角度を測り、観測欄に記録を書き込む。空はすっかり群青に染まり、風もあまりなかった。
静かな夜だった。火の音と、ホシの尾がたまに動く音だけが聞こえる。
「ねえ、リアナ」
エルミナが、焚き火の明かり越しに言った。
「うん?」
「わたしたちって、ずいぶん遠くまで来た気がする」
「来たよ。ちゃんと地図になってる」
リアナはそう言って、紙の上の赤い線を指差した。
「でも、まだ“妖精の泉”の場所は、ぜんぜん近づいた気がしない」
「うん。だけど……記録は増えてる。草の種類も、地形も。だから、どこかできっとつながるよ」
エルミナは小さく笑って、ホシの背を撫でた。
「そうだね。ホシ、今日もありがとう」
ホシの尾がふわりと動いた。
リアナは最後にもう一度、今日の地図を見返した。草の記録、風の記録、星の線。それらはすべて、紙の上の静かな旅路になっていた。




